びんご 古城散策・田口義之
銀山城跡 (福山市山手町)          〈015〉
銀山城跡
名水で有名な弘法水付近より銀山城を望む
 中世の芦田川は、郷分から山手の山麓を大きく西に湾入し、山手・津之郷の境辺りで東に流れを変え、現在の南本庄と草戸の間に河口を開けていた。この旧流路は、現在でも「古川」として残っており、地下には豊富な伏流水が流れている。この旧流路に挟まれた現本庄から東に突き出た地域が、備後杉原氏の名字の地となった「杉原保」である。銀山城は、この杉原保を眼下に収める、標高209.8bの山頂に築かれた中世山城だ。城は、高増山系から南に派生した尾根を大規模な空掘で断ち切り、南北に階段状に曲輪を設け、さらに東に突き出た支尾根と、西南に突き出た支尾根を削平して城郭としたもので、随所に石垣や竪堀の遺構が残っている。   
石垣 山陽自動車道より望む銀山城
城跡に残る高さ三メートルの石垣
山陽自動車道より望む銀山城
 
 山頂に設けられた曲輪群は南北に三段に削平され、総長約120bを測る。北端には土塁が、南端の曲輪には東側に枡形虎口の遺構が見られ、各所に礎石と思われる石材が散乱している。東に張り出した尾根上には東西に八ヶ所の曲輪が築かれ、北側には土塁が、主郭群との間には大規模な空掘が残り、空掘の南端は畝状竪堀群となって東南側の防備を固めている。登城道は、まず東側の曲輪群の南に取りつき、主郭群の東を南に上り、主郭南端の枡形虎口に入っていた。この登城道が東側曲輪群に取付いた部分には高さ三bに達する本格的な石垣が築かれ、礎石の存在と相俟って、この城の全盛時には相当本格的な普請と作事が行なわれていたことが想像される。
山陽自動車道 山陽自動車道
現在は山城の麓は山陽自動車道(高速道路)が走っています。
びんごの名水「弘法水」 弘法水
山城の南西には、びんごの名水「弘法水」があり賑わっています。

 『備後古城記』などによると、この城は室町時代初期に杉原伯耆守によって築かれ、以後同備前守、同播磨守盛重が居城したという。同書によれば、伯耆守は平貞盛の末葉で、神辺城主山名近江守丈休の家老であったという。
 伝承は別にして、銀山城主として史上に現れるのは、杉原氏の有力な庶家、南北朝時代に活躍した杉原為平の後裔である。杉原氏の惣領家は府中八尾城を本拠とする伯耆守家であったが、南北朝期に庶家の杉原信平・為平が足利尊氏に味方して大きく勢力を伸ばし、木梨庄・本郷庄(尾道市北部)の地頭職を得て土着、「木梨」の家を興した。為平は、木梨庄半分地頭職を得て同地の家城を本拠としたが、曾孫の匡信は本拠を沼隈郡山手に移し、銀山城に居城した。これが以後戦国末期まで福山湾岸に大きな勢力を持った山手杉原氏の起こりである(閥閲録六八)。
城主杉原氏の菩提寺
城主杉原氏の菩提寺   三宝寺 立派な禅寺です。(福山市山手町)
 山手杉原氏の菩提寺三宝寺(山手町)の過去帳には、銀山城主として初代匡信、二代理興、三代盛重の名があり、これらのことは信じてよい。銀山城主として最も勢力を持つたのは、豊後守理興の次男盛重である。盛重は、病弱な兄直良の陣代として各地で武功を挙げ、頭角を現した。当時銀山城の杉原氏は神辺城に出仕した宿老の一人であったが、天文17年の神辺合戦に際して、盛重は城方に属して目覚しい活躍をした。これを目の当たりにした攻手の吉川元春は、盛重の武勇を高く評価し、弘治3年(1557)春、元春の強い推挙で山名理興亡後、理興の跡を継いで神辺城主となった。盛重が神辺城主となった後、銀山城には杉原氏の一門や家臣が城代を勤めたが、天正11年(1583)の杉原氏没落後は廃城となった。
三宝寺(銀山城菩提寺)の案内版 杉原家の位牌
三宝寺(銀山城菩提寺)の案内版
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杉原家の位牌(三宝寺)
杉原盛重の墓 杉原盛重の墓・案内板
お寺の境内にある杉原盛重の墓
三宝寺の山門
三宝寺の山門
鐘付堂 門前町
境内にある鐘付堂
昔栄えたという門前町 等間隔で左右に道が開けています。
《交通》中国バス「弘法入口」から徒歩一時間。バス停から道標に沿って登り、弘法水から林道を右に行き、しばらく歩くと「城跡」の説明板がある。説明板の辺りから左に十分ほどで、城跡に至る。
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