びんご 古城散策・田口義之
椋山城跡 (福山市駅家町服部永谷)     〈014〉
椋山城跡
服部栄昌寺より椋山城を望む
 福山駅前から中国バス「服部行」に乗って約40分、「永谷」のバス停で降りると、西方山麓にお寺の屋根が見える、真言宗栄昌寺だ。現在、この寺を起点として「八十八ケ所」の御大師が祀られているが、この御大師道を、約15分程歩くと椋山城本丸に至る。ややけわしい道だが、地元の人々によって整備され、福山地方の山城の中では登りやすいものの一つだ。
 城の遺構は、標高170メートル余の椋山(要害)山頂を中心に東北、南東、南の3方に伸びた尾根上に見られ、山頂本丸から南東直下の曲輪跡には円型石組井戸(現在でも水が出る)、更に南東に下った出丸跡(小要害)には岩盤上に「柱穴」、南の尾根上には岩盤をくり抜いた「堀切」が残り、その保存状態の良さとあいまって福山地方の中世山城跡の中では、注目すべき遺跡の1つである。   
案内板 登り口
椋山城跡の案内版
城跡へ登り口 狭い道を山に入る
水鉢 身丈もある草や竹
大竹薮の中を少し奥に入った所に水鉢! これは毘沙門神社のなごりのものでした。
ここから上には身丈もある草や竹で登られなかった。そこで道を変え栄昌寺の境内から登る。
 『備後古城記』、『西備名区』等の江戸期の文献によると、この城に拠ったのは初代備後守護土肥実平の末葉と伝える桑原氏で、戦国時代、城主桑原中守通兼は始め備後の武将宮氏に従い、後この地方に安芸毛利氏の勢力が及んでくると同氏に従ったという。以上の伝承がどこまで真実を伝えたものであるかは、今後の研究課題だが、室町戦国時代、服部地方に宮氏の勢力が及んでいたことは事実だ。『山内首藤家文書』83号によると室町初期、「服部郷 同永末」は宮次郎右衛門尉氏兼の所領であったし、室町中期、宮惣領家5代の元盛は当城跡東方2キロの平林の地を新市町宮内の中興寺に寄進している(県史所収「中戸文書」)。
栄昌寺 八十八ヶ所の御大師様
栄昌寺の境内から左に山を登る。
八十八ヶ所の御大師様が祀られている。
頂上らしき所 石鎚様
頂上らしき所まで登ったところに石鎚様が祀られていました。
  むろん、桑原氏を宮氏と同格の在地領主とし、中世の服部はこの両者によって分轄支配きれていたと考えることもできるが、服部地方の精神的支柱「八幡神社」は戦国初頭宮氏によって現在地に移建されたと伝え、先の江戸期の文献に「桑原氏は宮氏の家老格」とあるのを信用すれば、桑原氏は宮氏輩下の土豪として服部の一部を支配していたと考えるのが妥当であろう。
 この場合、椋山城は宮氏勢力圏の一翼を担い、南方1キロの新山城、南東2キロの法成寺城を出城とし(両城共桑原一族の居城と伝える)、服部南部の要として重要な役割を果していた。
 猶、岡犬図書館所蔵「平川範義旧蔵文書」天文10年2月24日付宮実信感状に「今度於椋山云々」の文言があり、はとんど直接の史料を持たない福山地方の山城跡の中にあって、志川滝山城(加茂町)、勝戸山城(御幸町)、大場山城(本郷町)、一乗山城(熊野町)等と共に重要な山城の一つだ。 
城跡 登山道 馬場跡
城跡とおぼしき山頂。登山道はうっそうしとして人を寄せ付けない。馬場跡は道路沿いに
服部の郷を望む
城山の山中から服部の郷を望む。今は戦いの無い平和な風が吹いています。
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