びんご 古城散策・田口義之
九鬼城跡 (神石郡神石高原町小畠)     〈013〉
九鬼城跡
小畠久木より九鬼城跡を望む
 神石郡は高原と神様の郡である。どんな小さな村でも目を鎮守の森へ移すと立派な神社が森厳とした杉木立に囲まれて建っている。ところで、神石郡の南半を占める旧三和町の中心小畠から東方を眺めると丘陵越しに山頂を平らにした山が目につく。山城マニアでなくとも「これは城跡だな」と気付くはずだ。戦国時代、神石郡の豪族馬屋原氏が居城した九鬼城跡である。「九鬼」の名はいかにも荒々しく、「戦乱の城塞」といったイメージを抱かせるが、西麓の地名は「久木」と呼ばれていて、城名は地名に因むものであることがわかる。城の特色としては竪堀が多く見られることと、本丸背後の空堀群が見事なことが挙げられる。竪堀は戦国中期に流行したもので、築城年代を示しているようだ。全体的に遺構を良く残し、一見の価値ある山城跡である。   
八剱大明神社 八剱大明神社の祠
八剱大明神社の鳥居 八剱大明神社の祠 この前を右に行けば九鬼城跡への登り口がありますが、現在は登れなくて残念無念!!

 城主馬屋原氏は、伝承によると、坂東平氏の流れを汲む平正友が備中国水越郷馬屋原村を領して、「馬屋原蔵人允」と称したことに始まる。五代貞宗は幕府から神石郡志麻里荘(小畑周辺)を与えられて備後神石郡に移住し、上村(神石高原町上)に有井城を築いて本拠とした。その後、戦国時代になると馬屋原正国は小畑に新城を築いて本拠を移した、これが九鬼城である(『神石郡誌』)。
自然石の常夜燈 田園風景
自然石の常夜燈(九鬼城の麓にあります)伊勢の皇大神宮と讃岐の金毘羅宮に対する献燈 九鬼城跡の麓の集落(田園風景)

 馬屋原氏には、九鬼城馬屋原氏の他に、小畠の北方にそびえる固屋城を本拠とした一族もいて、互いに覇を競った。その家譜によると清和源氏の流れを汲む上総国の馬屋原光忠が、鎌倉時代末に神石郡に下向し、固屋城を築いた。
 両馬屋原氏は、互いに源姓、平姓を主張して争っているように見えるが、本来は同族であろう。平姓馬屋原氏の系図を見ると、南北朝後期に、源姓馬屋原氏から養子を迎えており、源姓馬屋原氏も神石郡土着にあたっては、有井城の馬屋原氏の援助があったと伝えている(神石郡誌など)。この両家は戦国時代を迎える頃には神石郡南部の有力城主となっており、弘治3年(1557)の毛利元就他17名連署の盟約状(毛利家文書)には、九鬼城の馬屋原信春が一族を代表して署名した。信春の跡は子の宮寿が継いだが早世し、毛利元就の甥敷名元範の子少輔五郎が馬屋原家を相続した。
九鬼城の北東に大矢城
九鬼城の東にある平忠集落は、馬屋原姓が多く城との関わりが想像されます。
 
 少輔五郎はのち兵部大輔と号し、天正末年(1590頃)、神石郡で863貫文の所領を持っていた。一方、固屋城馬屋原氏も毛利氏の支配下に入り、馬屋原元詮(入道休閑)は毛利輝元の側近として、輝元の「黒印」を預るほどの権勢を振るった。両家とも、関が原の合戦(1600)後は、毛利氏に従って萩に移り、九鬼・固屋城ともに廃城となった。なお、九鬼城馬屋原氏の後裔で、府中に浪人し、のち向永谷(福山市駅家町)に移住して庄屋を務めた馬屋原氏の子孫が、備後三大郷土史の一つ『西備名区』の著者として有名な馬屋原呂平重帯である。 
池 青々とした田圃
平忠には池もあり、今田んぼは青々と茂り美しい風景です。稲の匂いが懐かしい。
国道182号
福山・東城間の国道182号線を井関(信号機)で左折すると、平忠、久木へ通じます。
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