びんご 古城散策・田口義之
志川滝山城跡 (福山市加茂町北山)     〈012〉
志川滝山城跡
城山湖(四川湖ダム)より志川滝山城を望む
 福山市の中心から、国道182号線を北へ約30分、車は吉備高原に刻まれた加茂の谷あいに入る。ここでさらに道を山野方面にとると、やがて加茂町大字粟根に至る。備後宮氏最後の拠点となった志川(四川)滝山城跡は、ここからさらに西に入った、四川谷の最奥部に存在する。現在、城の麓に「四川ダム」が建設され、ダム湖の名称は滝山城に因んで「城山湖」と命名された。   
案内板 大谷池
志川滝山城跡の案内板 滝山城を西側に登ると大谷池

 城は、吉備高原の南縁の溺れ谷に望む尾根の突端部を利用して築かれたもので、標高395bの山頂部に南北3段からなる本丸を築き、東南に張り出したほぼ同じ高さの尾根上に4段からなる出丸を配している。主郭背後の尾根上と、主郭と東南の曲輪群の間には堀切が見られる。本丸と出丸に挟まれた東側のくぼ地には石垣で構築された井戸曲輪が残り、本丸西の断崖面には城名の起こりとなった、降雨後のみに流れ落ちる枯れ滝がある。
案内板(大谷池) 城山
大谷池の案内板 城山湖を谷川沿いに登り、振り返ると城山
江戸時代の郷土史書『西備名区』によると、滝山城は、山野村(現福山市山野町)戸屋ケ丸城主であった宮三郎義兼が明応元年(一四九二)に築き、越後入道光音、常陸守光寄と三代にわたって居城としたという。義兼の系譜は明らかではないが、山野は室町時代初期、宮氏の有力な一族宮次郎右衛門尉氏兼が領しており(『山内首藤家文書』八三号)、氏兼を祖とする宮彦次郎家の惣領かその一門に連なる者であろう。
 この城が攻防の舞台となったのは、天文二十一年(一五五二)夏のことだ。前年九月の大内義隆滅亡後の混乱した政情のなかで、同年四月、時の将軍足利義輝は、出雲の尼子晴久を備後など八カ国の守護職に任命し、中国地方の安定勢力と認めた。これによって尼子の勢力は再び中国山脈を超えて備後に南下し、庄原の山内氏をはじめ、これに応ずる者が現れた。なかでも宮入道光音を盟主とした宮一族は、一族を糾合して備北から南下し、滝山城に拠って宮氏再興の旗を挙げた。宮氏は、天文年間、尼子氏に味方して大内、毛利氏の攻撃を受け、備後南部でほとんど勢力を失っており、この機会に失地を回復しようとした。
城跡 滝山城家老の墓
城山へは登れず城跡を望む 芋原集落には、滝山城家老の墓が祀られている
 
 宮氏の挙兵に対し、安芸の毛利元就は、芸備の国人衆に激を飛ばして、大軍を備後南部に向けた。合戦は、七月二十三日に行なわれ、篭城将士の奮闘も空しく、城は陥って光音は備中に逃走した(『陰徳太平記』巻十八など)。『毛利家文書』二九三号などによると、高所を占める城方は、さかんに飛礫を用いて抵抗したが、この城の弱点となっていた「尾首(西北峰続き)」の城壁を突破されると、持ちこたえられず、一挙に勝敗が決まったようだ。
(主要参考文献)『福山市史』上巻、田口義之『備後の山城と戦国武士』、備陽史探訪の会刊『山城探訪』
(交通)中国バス「四川別れ」バス停から徒歩約一時間 
下りる途中 舟下邸
芋原より麓へ下りる途中 井伏鱒二の小説になった「丹下邸」より滝山城を望む
大パノラマ
芋原、滝山城家老の墓より神辺、福山、四国と、海を越えて見える大パノラマ
素晴らしい眺めです。
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