びんご 古城散策・田口義之
高尾城跡 (神石郡神石高原町福永)     〈011〉
高尾城跡
雄大にどっしりとした城山の全景
 神石高原町の福永に、高尾城跡(宮尾城とも呼ぶ)がある。城主高尾宮氏は謎の一族だ。『水野記』に「宮高雄」とあるから、中世備後最大の勢力を誇った宮氏の一族であることは確かだ。「元弘の変」で高尾元行と言う者が、この城に拠り、桜山四郎入道に組みして反幕の旗を挙げたという。しかし、戦国期に入ると勢いは衰えたようだ。天文17年(1548)、大内義隆は、高尾中務大輔先知行分の「福永二百貫」を甲奴郡の田総元里に宛がっており、このことを示している。田総氏に与えられた福永二百貫が、何れの地に当たるか確証はない。が福永の中心に聳える泉山城には田総氏の被官岡氏が入ったと伝えることから、それは福永の中心部であった。
 それにしても高尾城跡は、奥まった所にある。福永の中心呉ケ峠の町並みから北西に約1キロ、城跡らしき山頂は町並みからも見えるが、その全容は、近づかなければ分からない。そこは隠れ里のような小さな谷あいである。   
郷の景色 山つつじ
高尾城の麓から郷の方を眺めた景色 きれいな山つつじが咲いていました。

 城は、西から伸びた尾根の突端に築かれている。西の「尾首」に当たる部分には幾筋かの堀切が設けられている。高尾城跡は極めてコンパクトに築かれた形の良い山城である。本丸から北には三角形の広い曲輪が残り、居住空間としても使えそうだ。ただ、福永のもう一つの山城、泉山城より規模は劣る。さらに視界が狭い。
 この付近は、天文の末年(1552頃)、尼子・毛利の激しい戦場となったところだ。天文21年8月、尼子の軍勢は東隣の高光まで進出、「福永要害」を窺がった。福永要害とは泉山か高尾城のことであろう。毛利氏からも城番が派遣され激戦となった。尼子の攻撃は翌年も続いた。福永には泉山と高尾城のほかにもう一つ立派な山城跡が残っている。泉山の東北五町の間近に築かれた「八尾城」である。小さな丘だが曲輪や土塁・空掘の跡が綺麗に残り、なかなか見ごたえのある山城だ。
高尾城頂上
高尾城の上の部分   真中の△の所が天守閣のところです。向かって左に伸びたところに櫓が築づかれていた。叉右の山裾へも広がっている所にも櫓が築かれていたと地元の人から聞きました。
八尾城跡 山裾
八尾城跡の案内図 高尾城の山裾
 
 私は、八尾城は、この戦いで尼子が築いた「向城」の跡だと見ている。当時の文書を読むと「福永要害水多き由」等の言葉があり、「水」が問題になったのは戦いが「篭城戦」であった証拠である。
高尾城山の麓に「神宮寺跡と大桜」がありました。神宮寺跡には古墳もあり、この大櫻は樹齢200年以上と言う古木です。櫻は高さ17メートルで毎年春にはきれいな花が咲いています。マウスオンで拡大します
 尼子がなぜ福永に出てきたかは、考えさせる問題である。この地が備後中部の交通の要衝であったということもあろう。福永は「呉ケ峠(くれがたお)」として近年まで付近の物資の集散地であった。しかし、それよりも東隣の高光に本拠を置いた高光宮氏が尼子の味方であったということの方が大きいであろう。この時期、尼子の勢力は大きく後退していて、庄原の山内首藤氏、西城東城の久代宮氏が尼子方として留まっていただけだ。そして、高光の宮氏はその山内首藤氏の同盟者であった(山内首藤家文書)。それにたいして高尾の宮氏は既に毛利氏に属していた。元就は書状の中で「高尾方に涯分(全力で)力を副える」と述べているから確かだ。しかも、その高尾宮氏の勢力は弱小で、福永には田総氏の勢力も入りこんでいた。尼子はそこを突いて来たのだ。結局、この合戦は、別の場所(江田旗返城)で尼子が敗北し、山内・久代宮の両氏が毛利方に転ずることによって幕を閉じた。この合戦で高尾宮氏は勝者だったのであろうか…。その後間もなく同氏は歴史の表舞台から姿を消す。              地図はこちら
神宮寺跡 エドヒガンの幹
「神宮寺跡の全景」 エドヒガンの幹とその後ろに古墳がある
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