びんご 古城散策・田口義之
亀寿山城跡 (福山市新市町新市)     〈010〉
相方城より亀寿山城を臨む
 JR福塩線の新市駅前に降り立つと眼前に黒々した山が迫ってくる。これが備後宮氏の本城として有名な亀寿山城跡である。城跡は海抜百四十mほどの高さしかないが、花岡岩の岩山で東西に分かれた山頂部は切り立ったように険しく、人を寄せ付けない。山中には新四国八十八箇所のお大師道が設けられ、この道を利用するとほぼ城跡を一巡できる。駅前からだと東南麓の御旅神社からスタートするのがいいだろう。(ほかに駅前通り北進300m安養寺からの登り口もあります)   
登り口
新市町安養寺より亀寿山城跡への登り口
急な石段 険しい坂道
急な石段を登る 山道も険しい坂道です
城が歴史の表舞台に登場するのは南北朝鮮時代のことである。城主と伝わる宮下野守兼信入道道仙は、この城に拠り、足利尊氏・義詮方として華々しい活躍をした。
なかでも貞治元(一三六二)年から翌年にかけて行われた「備後宮内合戦」は史上に名高い。この年、足利尊氏の庶長子で父に反抗した足利直冬は石見(島根県)で再起を図り、備後宮内(新市町宮内)に陣して、味方を募った。安芸の毛利・吉川・備後の三吉・広沢の諸氏がこれに応じた。直冬は宮氏にも味方するように使者を送ったが,入道道仙はこれに応ぜず、亀寿山城に拠って対決の姿勢をとった。こうして、宮内に本陣を置く直冬と半年に及んだ「備後宮内合戦」が始まった。
亀寿山城跡の標識
小岩の間を道のような、道でない道を歩いて二の丸跡に辿り着く。
亀寿山城跡の標識
当初は直冬に味方する国人が多く、宮氏は苦戦したが、細川頼之が尊氏から「中国大将」に命じられ直冬討伐に乗り出すと、宮氏も反撃に転じ、貞治二年春、道仙の嫡子下野次郎氏信に敗れた直冬は備後を没落し行方知れずと成った。(「太閤記」巻三八など)。宮氏の勝利は中国地方における足利幕府の覇権を決定的なものとし、それまで南朝方あるいは足利直冬方として反抗していた山名・大内の両氏は相次いで幕府に帰順し、ここに足利氏の幕府は安定への道を歩むこととなった。幕府もこの宮氏の働きを高く評価し、道仙を備中国の守護職に命じ、これに報いた。
石鎚神社の鳥居 石鎚神社
石鎚神社の鳥居 二の丸跡には石鎚神社が
祀られています。
お大師様
登る途中には、四国八十八ヶ所のお大師様が祀られています。
岩 白衣観音
岩の上を歩きます。気をつけて這つて登る所もありました。   白衣観音様
 
 以後、備後の有力国人宮氏の拠点として利用されたと考えられるが、その様子は必ずしも明らかではない。道仙の子孫は「宮上野介家」として備後に大きな勢力を持ったが以後石成庄内(福山市御幸町を中心とした神辺平野)に拠点を持ち、この城を利用した形成はない。かつて定説であった「宮氏惣領家の居城としての亀寿山城」説は見直すべき時期に来ている。
 城郭としての亀寿山城は、典型的な南北朝時代の山城の様相を示している。山頂および,山頂から東西南北に伸びる痩せ尾根はすべて郭として利用されているが、その加工度合いは弱く、郭間を断ち切る堀切りも単に尾根上を加工したのみで、戦国期の山城のように竪掘となって斜面に延びることはない。
町並
流石に本丸の跡に辿り着くと、眼下には新市府中方面にかけて立派な町並が見えます。
大鳥居 本丸跡
本丸の石鎚神社の大鳥居 本丸の跡らしく広い。
神社 集会所
これが石鎚神社のようです 礼拝所兼、集会所のようでした。
二の丸跡 眺めは抜群
二の丸跡、ここより本丸までは相当遠い。眺めは抜群。  地図はこちら
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