びんご 古城散策・田口義之
泉山城跡 (福山市駅家町雨木)       〈009〉
泉山城跡

 今から800年余り前、関東の一角から興った戦乱は、日本の政治制度を一変させた。一介の流人に過ぎなかった源頼朝は、冶承4年8月、伊豆で反平氏の火の手を揚げ、これが鎌倉幕府の開設へと続く歴史の大きな炎へと燃え上がった。
 頼朝が天下の草創と呼んだように、鎌倉幕府の成立は大きな意義を持っていた。それまで貴族たちの侍″、つまり奉仕する立場であった武士が、一躍政権の担当者として歴史の表面へ躍り出たのだから…。   

雨木池 正覚寺
泉山城の麓の雨木池 お寺に車を駐車させてもらいました
 
 「武士の世の中」。これが鎌倉・室町と続く、中世という時代に冠せられた一般的な呼び方だ。確かに軍事的には鎌倉幕府の開設とともに、武士の力は貴族勢力を圧倒した。しかし、これを社会制度の面からみると、武士の力は彼らを完全に圧倒し去ったとは到底いえない。
藤の花 泉山城跡に登る道
城山へ登る途中、見事な藤の花が咲いていました。 道路はきれいに整備されていましたが急斜面で運転には少し自信が無く歩きました。
祠 本丸跡
泉山城跡です。小さな祠がありました。 石碑の場所より南側に広く、ここが本丸の跡のようです。
 
 京都を拠点にした公家政権は、荘園・公領と呼ばれる膨大な領地を持ち、鎌倉幕府に結集した武士たち御家人″は、単に守護、地頭として、その一部を支配していたに過ぎなかった。その良い例が、福山市の北郊、駅家町の服部谷の奥に所在する泉山(せんやま)城跡だ。この城跡は、江戸時代の文献によると、頼朝が任命した初代の備後守護、土肥実平が備後を支配するために築いた大城だという。確かに立地や、南麓に残る「土居」の地名からみて、福山地方では最も古い中世山城の一つだろう。しかし、その立地は、どうみても一国の守護の本拠とはいえない。視野が狭すぎるのだ。一歩譲って地頭としてのそれであったとしても、強力な地頭のイメージには程遠い。山上からの視界は、それほど限られたものなのだ。実は、この山城からの視界(支配領域を意味する)の狭さが、鎌倉幕府の実態だ。そして、こうした谷奥に拠点を占めた彼らが、貴族勢力を逐って平野に進出し、やがてそこに天守閣を持つ巨大な城を築くようになる…。これが中世と呼ばれた時代の真の姿である。草深い谷奥に拠点を占めた武士たちが、いかに勢力を拡大、福山城という武家支配の記念碑を築いていったかの…。このシリーズでは主に、彼らの残した山城跡を紹介しながら、その跡を追っていきたい。
北側 八重桜
北側は細長く広がっていますが現在はテレビ塔が建っています。 大きな八重桜です。
服部の郷
泉山城跡より服部の郷がきれいに見えます。
地図
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