古城散策・田口義之
一乗山城跡 (福山市熊野町)         〈007〉
一乗山城跡
熊野水源池から前方に一乗山城を望む
  戦国時代が始まって間もないころ、福山市草戸町の地侍渡辺氏の屋敷に一人の男子が生まれた。応仁の乱で没落した渡辺氏を見事に再興し、後に熊野町の一乗山城初代城主となった渡辺越中守兼その人である。兼は戦国乱世を生き抜くこと約半世紀、晩年に「後々の子孫のために」と、自伝『渡辺先祖覚書』を書き残し、波乱に富んだ一生を回顧した。備後戦国史の研究にとってはかけがえのない好史料となっている。   

常国寺正門 常国寺の説明
常国寺正門
  兼の立身は、まず備後の国主山名家に仕えることから始まった。彼は十六歳の時、伝手を頼り上京、首尾よく山名家の御曹司俊豊に仕え、以後俊豊の忠実な部下として、京に、但馬(兵庫県北部)にと縦横無人の活躍をした。当時、山名家は宗全の孫政豊と、その子俊豊が再び国主の座をめぐって争い、兼はこの戦いで、俊豊を助けることによって渡辺氏の再興を果たそうとした。俊豊一行の但馬(政豊の本拠)討入はドラマに富んでいた。
一乗山城跡への登り口 登り口
一乗山城跡への登口 常国寺より下ったところが城山への登り口
  小人数での逃避行、海路但馬への上陸。多感な年頃だった彼は、覚書の中で、この時の情景を生き生きと解雇している。この頃も「浦島伝説」は有名であったと見えて「浦島か釣をたれ候在所、種々様々面白く候」と記している。
七面明神 熊野の里
「7面明神」ここより本丸跡へ登ります。 振り返ってみると熊野の里が見えました。
但馬での合戦は苦戦の連続であったが、一応備後は俊豊が支配することで和議が纏まり、備後に帰った兼は、俊豊から多くの領地を与えられ、見事渡辺氏の再興を果たした。
だが、その後も兼の人生は戦いの中にあった。合戦につぐ合戦、国内の有力豪族の争いに巻き込まれながらも、兼は強運で、永正年間(1510頃)には、当時「山田」と呼ばれていた熊野盆地を手に入れ、はじめに述べたように盆地の南東偶に一乗山城を築いて本拠とした。兼が死去したのは天文15年(1546)のこと。この年、のちの天下人織田信長は十二歳、豊臣秀吉は九歳、徳川家康は四歳、戦国の世は正に最高潮に達しようとしていた。兼の後、渡辺氏は出雲守房、源三高、民部少輔元、四郎左衛門景と五代この城に居城したが、慶長5年(1600)、主君の毛利氏が関が原合戦で敗れたため、退城し、一族は各地に離散して行った。
急な石段 登り口
大変に急な石段です。 本丸登り口
整備された道
綺麗に整備されている道です。
息も切れぎれに登りつめると
右のように本丸跡がありました。
 
 渡辺兼が築いた一乗山城跡は、今も福山市上水道熊野水源池の緑の影を落としている。
車で行けば水呑大橋を渡って右折、熊野町六本堂で左折、約十五分で城山の麓に着く。西麓の兼が創建した常国寺で車を捨て、きれいに整備された山道を約十分、城の鎮守「七面明神」背後の堀切を越え、急坂を上り切るとそこはもう本丸だ。周囲を見回すと、そこかしこに崩れかけた石垣が苔むしている。歴史マニアなら一度は訪ねてみたいところである。

  
周辺地図
地図をクリックすると拡大します
お菓子所 勉強堂 (株)福山臨床検査センター
キングパーツ株式会社 マスネット

備陽史探訪の会 313eクラブ 協賛広告・会員募集
バックナンバー HOME クラブTOPへ ▲PageTop