古城散策・田口義之
楢崎城跡 (府中市久佐町)          〈005〉
楢崎城跡
福塩線河佐駅より右前方に楢崎城跡を望む
 
 世羅台地を水源とする芦田川は、甲山盆地から幾つかの小盆地を経て備南の穀倉神辺平野へ出る。この芦田川中流の小さな谷あいの平野のひとつ、府中市の久佐盆地を見下ろす標高341メートルの朝山に築かれたのが、戦国時代、この付近一帯を支配した楢崎氏の居城、楢崎城跡だ。
 城は、北から南に半島状に突き出た朝山の山頂部を四段に削平し、北方山続きを三条の堀切によって画しただけの比較的単純な構造である。   地図はこちら

本丸周辺 二の丸跡
石垣が沢山ある本丸周辺 二の丸の跡
 
 この城の大きな特徴は、石垣・礎石の存在と、竪堀の使用だ。石垣は、本丸周辺に集中して見られ、高さは1、5メートル前後で、特に中央の櫓台は、高さ1メートルの石垣によってほぼ全周が取り囲まれている。礎石は、本丸の南縁と2段目の曲輪の西南部に見られ、石の大きさは2〜30センチで、一部には径10センチの柱穴を有するものもある。竪堀は、北側を除いた城郭主要部のほぼ全周にわたって残り、東・西・南側では、竪堀が連続したいわゆる「畝状阻塞」となっている。
 また、この城跡で注目されるのは、城跡西北の鞍部を通る古道との関連である。現在、甲山から府中へ抜ける主要道は、城跡直下を通る川沿いの道であるが、土地の人の話によると、50年ほど前までは、この城跡西北の鞍部を越える道が備北から備南に通じる街道であったという。

二の丸跡 竜王神社
二の丸跡 本丸跡に祀られている竜王神社
展望台 楢崎城跡の石碑
本丸跡の展望台 楢崎城跡の石碑(明治44年建)
 
実際に歩いて見ると、道沿いには転々とかつての電信柱が残り、近年まで主要道として使用された形跡が残っていた。さらに峠の部分では道が直角に曲がり、その屈曲点を見下ろすように曲輪跡と推定される平坦地が残っている。楢崎城は街道の関所としての役割も担っていた。
 城主楢崎氏は、元来近江国犬上郡楢崎村を名字の地とした武士と伝わり、鎌倉時代最末期の正慶2年(1332)、足利尊氏より芦田郡久佐村の地頭職に補任されたのが、この地に勢力を持つようになったきっかけだと云う。伝承は別として、戦国時代の天文年間(1532〜55)になると同氏の活躍が史上に現れるようになり、弘治3年(1557)の毛利元就他十七名の連署起請文案(毛利家文書225号)には、杉原・三吉氏などと並んで楢崎彦左衛門尉信景の名があり、既にこの時期には備後国人衆として確固たる地位を築いていたことが分かる。

城跡からの町並
城跡より福山より上下、東城線の道路に沿う町並
楢崎城登り口 急斜面
楢崎城跡へ登る第一歩の道並 随分急斜面です。
 
 楢崎氏歴代の内、特に有名なのは、信景の父三河守豊景と、信景の嫡子弾正忠元兼だ。共に戦国大名毛利氏旗下の勇将として知られ、豊景は毛利氏の部将として活躍し、永禄11年(1568)8月の神辺合戦では、子息を失いながらも、藤井皓玄から神辺城を奪回するのに功があった。元兼は天正年間(1573〜92)、毛利氏の部将として美作月田山城を守り、羽柴・宇喜多氏との合戦で功を立てた(『萩藩閥閲録』巻五三楢崎与兵衛)。城はこうした楢崎氏の盛衰の中で整備され、慶長5年(1600)、同氏の退去と共に廃城となった。
 城跡を訪ねるには、JR福塩線を利用して河佐駅で下車する。駅前に立つと右手(東)に行く手を阻むような山容が目に入る。これが別名朝山双子城とも呼ばれる楢崎城跡だ。集落の北側にかつての街道が残り、東に上り詰めた峠で道を右手にとれば十分程で山頂本丸に達する。福山周辺では登り易い山城のひとつだ。

安全寺(曹洞宗) 五輪塔
安全寺(曹洞宗) 安全寺の墓地に眠る、歴史に活躍された人達の五輪塔マウスオン
(写真の一部は田口義之先生にご協力いただきました)
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