古城散策・田口義之
正戸山城跡 (福山市御幸町)         〈004〉
正戸山城跡
平成大学の北側、福塩線をまたいで正戸山城跡がある。
 
 南北朝の内乱は、日本史上でも重要な出来事であった。今までわずかに余命を保っていた公家などの古代勢力は、この戦乱で最終的に勢力を失い、本格的な武士の世が始まった。また、この時代になると「国人」と呼ばれた在地武士の動きも活発となり、わが備後の歴史も次第に明らかになる。そうした中で、武士たちの争奪の的となった山城がある。御幸町の正戸山城だ。

正戸山城跡の地図・クリックすると拡大します 「正戸山」の小さな看板「赤丸の中」
県道391号線を北上、県道181号線を右折、すぐに「正戸山」の小さな標識がある。
 
この城は、「備後の穀倉」神辺平野のほぼ中央に位置する独立丘で、南麓に旧山陽道が通り、今では平野に孤立する小山にしか過ぎないが、当時は周囲は沼田で、戦略的な要衝を占めた、正に天然の要害と言えるものであった。
 江戸時代の地誌によると、この城は小藤備前守が築城し、故に「小藤(しょうとう)山」と呼ばれるようになったというが、史上に登場するのは、足利尊氏の部将で備後守護に任ぜられた岩松頼宥の居城としてであった。
急坂 昭和天皇、御下馬跡
正戸山の登り口、急坂が始まる 更に登ると昭和天皇、御下馬跡がある
城の石垣 本丸跡の神社と記念碑
やがてお城の石垣に出逢う 本丸跡には神社と記念碑が建つ
 
 岩松頼宥は新田義貞の一族であったが、南北朝の内乱では義貞と袂を分かち、尊氏の忠実な部下として活躍した。
 頼宥が備後に派遣されたのは、そのころ備後に勢力を持っていた守護上杉氏の力を押さえ込むためであった。守護を抑えるために守護を派遣するというのも妙な話だが、当時、戦乱は南北朝の抗争というよりも、尊氏・直義兄弟の権力闘争のほうが熾烈を極め、直義に味方した上杉氏に対し、尊氏から派遣されたのが頼宥であった。時に観応2年(1349)8月のことであった。正戸山(当時は勝戸と書いた)を本拠とした頼宥は早速活動を開始した。8月13日には石成上下城に拠る上杉氏の軍勢を破り、同月22日には尾道城に拠る直義方と戦った。しかし、上杉氏の反撃も中々鋭いものがあったようで、10月には正戸山城も攻撃を受け、味方の奮戦でやっと撃退している。

石灯篭 天守閣跡の神社
本丸東側に見事な石灯篭 天守閣跡には神社がまつられている
東側 御統監之碑
本丸広場東側は、神社境内風 西側には御統監之碑が立つ
 
結局、この戦いは尊氏の勝利に終わり、頼宥は備後を去ったが、この城の役割は終わらず、以後250年、戦国時代の終わりまで、地域の拠点として興亡を繰り返した。
 山頂に立つと神辺平野は一望の下で、なぜここに城が築かれたかが良くわかる。なお、昭和5年に神辺平野で行われた陸軍特別大演習の際、昭和天皇が愛馬吹雪号でこの山に登られ、大演習を御統監されたのは、年配の方々にとっては懐かしい思い出である。
南側、御幸市街 北側、加茂平野
本丸から南側に御幸市街 北側に加茂平野が望める
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