古城散策・田口義之
神辺城跡(福山市神辺町川南)         〈001〉
神辺城跡
神辺平野の南端黄葉山 神辺城跡を望む(右側木の立っている山)
 
 神辺平野の東南に位置する神辺は、黄葉山麓に開けた古くからの城下町だ。地名の起こりは、現在、城山の北麓に鎮座する天別豊姫神社に由来する。古代は、秀麗な山や巨木・岩石を神の依代として祀る自然崇拝が主流であり、黄葉山も、この神様の降臨する山、すなわち神奈備山(かんなび)として地域の人々から信仰され、神奈備(かんなび)から神辺の地名が生まれた。

天別豊姫神社
城山の北麗に鎮座する天別豊姫神社
大灯篭
鳥居横にある大灯篭

 神辺に城が築かれたのは南北朝時代のことだ。古代の山陽道は、元神辺平野の北縁を通っていた。ところが中世の後期になると、沿岸部の鞆・尾道が瀬戸内海の要港として繁栄し、山陽道も神辺から南下して、郷分・山手から松永湾岸の今津を通って尾道に抜けるようになった。ここに山陽道の「道上城」として神辺城が築かれた。伝承では、建武二年(一三三五)のこととされるが、当時の備南の情勢からもう少し時代を下げたほうがよい。さらに、神辺城に関しては、二段階の築城が考えられる。黄葉山の北東麓には、古城の地名が残り、低丘陵上に城跡の存在が伝えられている。この古城には神辺城の出城として戦国期の長田左京亮の名が伝えられているが、おそらく初期の神辺城はこの古城山に位置していたのだろう。
急坂
313号線から入ったところから急坂がある
遊歩道
やがて駐車場、そこから天守への遊歩道
 
 神辺城が歴史上に本格的に登場するのは、戦国時代中期の天文年間である。当時の城主山名理興は、大内に味方し、備後南部の支配権を握るが、のち尼子方に転じ、以後当城をめぐって在地の勢力と、大内・尼子・毛利という名だたる戦国大名がしのぎを削ることになる。
理興の登場によって、神辺は備南の政治の中心になった。史上有名な神辺合戦は、尼子氏に応じた山名理興に対して、大内氏が総力を挙げて挑んだ戦いで、合戦は神辺城の支城の攻防から始まり、天文十七年(一五四八)六月には、大内勢の総攻撃が決行され、同十八年(一五四九)九月、理興が城を捨てて出雲に逃走するまで、足掛け七年にわたって繰り広げられた。

広場
遊歩道が尽きるとそこは眺めの素晴らしい広場
二の丸天守閣跡
広場から更に二の丸天守閣跡へと登る
 
その後、理興は許されて神辺に帰るが、弘治三年(一五五七)春に病死し、嗣子がなかったため山手銀山城主杉原盛重が毛利氏の支持を得て入城する。以後当城は、毛利氏の有力な部将杉原氏の本拠として戦国大名毛利氏の一翼を担い、天正十二年(一五八四)、同氏が内訌によって毛利氏に討滅されて後は、その直轄城として推移し、福島氏の時代を経て、元和五年(一六一九)、備後十万石の大名として入って来た水野勝成によって廃され、その役割は新たに築かれた福山城に委ねられた。
神辺城想像図
駐車場にある神辺城想像図
歴史民族資料館
歴史民族資料館
 
 城跡には、神辺歴史民俗資料館に登る道を利用する。同館の駐車場から西へ200メートル登ると城跡西端に達する。ここから神辺平野は一望の下だ。散策道にそって登ると、本丸跡にいたる。かつてここには福山城に移された三階櫓が威容を誇っていた。
南側福山市街 北側神辺平野
天守閣跡からは南側福山市街 北側神辺平野が一望できる

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