第164回     

  
 六十六部巡礼

宝暦九年と行者一心稱念の文字が刻まれた供養塔。

 前回は中世の山陽道と思われる今津の街道を紹介したが、今回は近世山陽道だ。
 薬師寺の参道を下り街道に出ると西へ。本陣跡を過ぎ、平櫛田中旧居址の石碑を右手に見ながらさらに進む。
 その先、蓮華寺の手前、道が少し細くなっている箇所がある。そこの角地の家の一階、「飛び出し注意」の電柱に隠れるように石塔が建っている。奥には、舟形向背石地蔵二体と厨子に安置された大師像。個人宅のようだが、どういう経緯で安置されたものか。
 さて、注目したいのは石塔である。浅い彫りは風化により、かなり判別し難くなっているが、正面には「奉納大乗妙典日本廻国六十六部」側面には「行者一心稱念」と宝暦九年(1759)の文字が読みとれる。
 全国の六十六カ所の霊場(特に決まったものはなく著名な社寺)を巡礼し、書写した六十六部の法華経(大乗妙典)を一部ずつ納めていく廻国は、六十六部とも呼ばれ、室町時代には存在していたとされる。
 六十六部行者、六部行者、廻国聖などと呼ばれた彼らが無事、廻国納経を達成した記念に建てられるのが廻国塔である。しかし、志半ばで行き倒れる人も多かった。そうした巡礼者を亡くなった土地で供養したのが廻国供養塔だ。(廻国成就記念として建てたものや、行者に結縁(けちえん)して造立されたものも廻国供養塔と称する場合が多い)
 
 街道に眠る歴史

民家の一角に立つ供養塔。
 
 廻国行者や廻国供養塔については、今だ多くの謎が秘められているようで、研究の余地は多いにある。江戸時代以降は西国巡礼や国分寺を廻ったようだが、長い歴史の中で、その目的や意義も多少変遷していったかもしれない。
 備後にどれほどの廻国塔や廻国供養塔があるのか知らないが、行く先々で目にすることは多い。形も大きさも様々である。
 今津の場合は、行者自らの名が彫ってあるので、廻国成就の記念としての廻国塔であろうか。一九世紀の造立が多い中、宝暦年間は早い時期である。小ぶりな塔だと感じるのは、そのせいもあるのだろうか。行者一心稱念は如何なる人物であったか。街道に佇みながら、想像は膨らんでいく。
 沼隈町の四ツ堂には、台座に正徳四年、六十六部供養塔の銘を刻んだ地蔵尊があった。こちらは、行き倒れた行者を供養して建てられたものであろう。街道沿いには、そういう供養塔が多い。
 経典を詰めた厨子を背負い、ただひたすら道を歩きながら、巡礼者は何を見、何を思ったのだろうか。寺社境内に建つ立派な廻国塔を見上げるより、路傍の供養塔に胸が熱くなるのはなぜだろう。道半ばで倒れた行者の無念さを察してか、あるいは、旅人を手厚く葬った人たちの心に打たれてか。
 街道には、現代人が想像するよりはるかに深い歴史が眠っている。
 



備陽史探訪の会
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