第163回     

  
 山陽道はどこの道?

 太多理河。現在はブルーシートで覆われているが、今も澄んだ水がたたえられている。

 山陽道と言われて、まず何を思い浮かべるだろう。山陽自動車道を思い浮かべる人もいるだろうし、道標や一里塚が残る江戸時代の街道を思い描くかもしれない。
 実は、山陽道とは、古代の行政区画である五畿七道のひとつで、播磨・備前・備中・備後・安芸・周防・長門の八ケ国を指す。一般にはこれらの諸国を通る駅路を表すことが多い。令制では、都と九州大宰府を結ぶ官道として、各駅には駅馬二十疋が置かれたという。備後国には、安那駅(現神辺町)、品治駅(現駅家町)、者度(いつと)駅(現御調町)など五つの駅が置かれていた。神辺、駅家、芦田、御調と、かなり山寄りの経路である。
 中世に入り、瀬戸内海沿岸地域が発達してくると、山陽道は海岸寄りになってくる。
 近世(江戸時代)に入ると、街道が整備され、今も本陣や道標が残る街道が現れてくる。これらは当時、西国街道、あるいは西国道、中国路などと呼ばれたという。
 ひと口に「山陽道」と言っても、知れば知るほど、どの道のことなのか判別しにくくなってしまう。
 さて、近世の山陽道を歩く手がかりは多いが、中世の山陽道はどうであろう。
 
 中世山陽道を行く

そぞろ歩きたくなる風情を残す道。
 
 福山市今津町に中世の街道と思われる道がある。西国街道今津本陣跡の北側、薬師寺の山門前を通る道がそうである。
 寛文の頃まで、西国街道あたりが海岸線であったので、かなり海寄りの道だったわけだ。西国街道ができてから、人通りはしだいに少なくなっていったそうだ。そのおかげか今も、連なる軒に風情を感じる通りである。
 薬師寺から西へ、なだらかな坂道を下っていくと、右手に河本家の墓所が見えてくる。江戸時代には本陣職にあたった大庄屋である。何百年という歳月を肌に刻みつけた墓石の数々は、辿ってきた歴史の確かさを感じる。
 さらに進むと、ブルーシートがかかった小屋がある。太多理河(たたりがわ)という井戸だ。古くから旅人や土地の人々によく利用されていたという。天保年間、そして明治四十二年にも井戸は深く堀り下げられ、その都度、増加する需要に対応してきた。現在は上水道の布設で利用者は少なくなったが、水量・水質は変わらないという。
 中世山陽道を行く旅人の喉を潤し、あるいは本陣に泊まる人々の飲料となり、そして地元の人たちの貴重な水源であった太多理河。かつては、この井戸の管理は平櫛家に一任されており、年に一度の「井戸さらえ」など、その先導のもと行なわれたと云う。多くの人の喉を潤し、そして地域の人の手で守られながら、井戸には今も、清らかに澄んだ水が湧いている。
 遥か古に想いを馳せ、古道をぶらり散策するのも一興である。



備陽史探訪の会
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