第158回     久留美の里―前編―

  
 久留美の里へ

里の奥に吉岡家の屋敷が見える。

 現在の神石高原町(旧三和町)時安に久留美(ルビ・くるび)という名の里がある。江戸時代には時安村であったが、元和5年の備後国知行帳には時安村・胡桃(ルビ・くるみ)村の二村が記されている。久留美の里は、胡桃村ではなかったか。
 国道182号を三和の森入口の交差点で右折。県道418号線(井関加茂線)を少し走り、左の道へ入り時安へと向う。道はわかりにくいが、光福寺を目標に進めばよい。
 山の中腹に続く時安の集落をひたすら走る。市街地のような派手な標識もなければ、これといった目印となるような看板も乏しいが、里山の風景は穏やかで、春の陽光は眩いばかりに頭上に降り注ぐ。時折り見かける四ツ堂が、行く道が往還だったことを物語っている。因みに福山藩主が新領となった神石郡、安那郡を巡見した際、時安村で休憩した記録が残っている。御一行も同じような風景を見たのであろうか。
 途中、道を尋ねながら、さらに奥へ奥へ。光福寺の看板のある所で下の道を取り、さらに進む。
 やがて、久留美という小さな標識を目にする。その標識からさらに奥へ。いくつか分岐をして、左手に古い石垣が続く道に出る。その先に立派な石垣と鬱蒼とした大樹が見える。吉岡家の屋敷だ。その向かいの尾根には登武丸城跡。この一帯が今回の舞台となる。
 
 楠氏の裔と水野勝成

山の斜面に広がる時安の里。
楠正世や水野勝成が見た風景もこのようであったろうか。
 
 この久留美の里が、福山藩主水野勝成と縁(ゆかり)があるとは、あまり知られていないであろう。
 その前に、久留美について、少し語っておかねばならない。
 時は南北朝時代。楠正成の三男正儀、その子正秀、さらにその子正世が吉岡と改め、応永13年(1406)久留美の里の豪族金山与四郎を討ち登武丸に城を構えたという言い伝えがある。
 あるいは、南朝没落後、正世が久留美の里に落ち延び吉岡家に寄寓し、家の娘タネと結ばれ、吉岡家を継いだとも伝えられる。
 いずれにしろ、吉岡家は楠氏の流れを汲んでいるということになる。
 八幡神社の南方に位置する登武丸の土居の跡は、今は熊笹が茂るばかりだ。その先の小丘は八幡神社のお旅所となっている。山城跡らしきものは確認しなかったが、城郭は尾根沿いに広がっていたのだろう。はるか下方に谷川が白く光って見えた。
 やがて正世は、登武丸に楠正成を祀る吉岡神社が建てると、「亥の平屋敷」へ移り住む。亥の方角の平らな場所という意味で、登武丸から北北西方向の山腹の平らな場所、現在の吉岡家の西側がそれに当たる。後に代官所が設けられたが、現在は水田となっている。訪れた時、一面に張られた水面に真っ青な久留美の空が映りこんでいた。
 吉岡家はその後、長きにわたり代官、庄屋を勤めながら、明治を迎える。
  (続く)



備陽史探訪の会
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