第138回    産業から視る備後遺産―2―

  
 塩田と下駄の町だった松永

建物の壁面に描かれた当時のクリークの様子。

 日本でただひとつの博物館をつくりたかった……、「日本郷土玩具博物館」を創られた頃、丸山茂樹氏がおっしゃっていたことを、今も鮮明に思い出す。県立歴史博物館館長をされていた時は、前例のない正月期間の「古代エジプト展」開催で、期間中に年間の動員数を達成されたアイデアマンだったと記憶している。その発想力や実行力は血筋であったのだろうか。
 本業は株式会社マルヤマの四代目社長であった。初代は丸山茂助氏。松永を下駄の町として発展させた人物である。
 明治11年、下駄屋を開業した茂助氏は、明治25年頃、空船となって山陰から戻ってくる塩積み船でアブラギを運ぶことに目をつけた。松永は、福山藩士本庄重政が塩田を造り発展させた町である。塩田には縦横にクリークが走っている。運んできた木材はここに貯蔵しておけばよい。必要な時に必要な量だけ引き上げて使用する。塩田業と下駄づくりが無駄なくぴたりと符合した。そして、これが「下駄の町・松永」の礎となった。
 格安のアブラギを材料に、様々な工夫で大量生産化が計られ、やがて松永は日本の下駄の6割を生産する下駄の大産地に発展していくこととなる。
 
 これからの下駄の町・松永

コーヒーハウスサボとして営業されていた2010年当時の旧マルヤマ本社
(旧マルヤマ商店事務所)
 
 丸山茂樹氏が父の会社を手伝いはじめた昭和30年代は、塩田は廃止され、下駄産業も斜陽となる激動の時代であった。しかし、マルヤマは総合はきものメーカーとして時代を乗り切っていく。
 今日、松永の下駄産業は衰微してしまったが、はきものの町としての矜持は保っているのではないだろうか。下駄が主役の祭り「ゲタリンピック」もすっかり定着したように思う。
 1978年に設立された「日本はきもの博物館」も日本唯一の博物館であり、企業博物館の先がけのひとつとして注目を集めた。当時、下駄産業は下降の一途であったが「先人たちの努力の歴史を後世に残したいという思いがこの博物館設立の原動力となった」という。茂樹氏は歴史や文化の価値を識る経済人だったと思う。
 同博物館の岡本太郎氏の足あと広場は有名だが、ユニークな博物館作りで県立博物館館長に抜擢された茂樹氏といい、自由で独創的な発想力はとてつもない財産であると感じる。
 30年ほど前まで社屋として使用されていた建物(大正11年建造)は、平成8年に国の有形文化財として登録された。内部は改装され現在はコーヒーハウスとなっているが、長い時を経てきた空間は、そこに身を置くだけで人の心をじわりとほどいてくれる。
 人生を俯瞰する目が霞んだ時は、ここでしっとりとしたひとときを過ごすのもいいだろう。先人たちが築いた歴史を豊かな発想で俯瞰すると、新しい時代が見えてくるかもしれない。
※「日本はきもの博物館」は2013年(平成25年)に閉館。それに伴いコーヒーハウスも閉じられた。2015年(平成27年)に福山市に寄付され、同年、福山市松永はきもの資料館(あしあとスクエア)として開業。敷地内の伝統産業館では、い草・塩・下駄の生産関連の資料を時代の変遷を追って展示してある。


コーヒーハウス

備陽史探訪の会
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