第135回     

  
 乗越堤から砂堰へ

森脇八幡神社境内の石柱

 元和5年(1619)、水野勝成が備後に入封。翌年福山城の築城に着手するが、芦田川が氾濫して、造成中の城下町ともども壊滅的打撃を蒙った。そのため、東進し高屋川に合流して南へ流れていた芦田川を今のように中津原で大きく右へ曲げ、ほぼ直角に南進させることにした。さらに寛永年間に、芦田川の治水工事を進め、堤防を築造していく。しかし、中津原の52間(約94メートル)には堤防を築かず、川よりわずかに高く土を盛ったのみであった。
 これは、江戸時代、川の氾濫に対する一般的な安全装置として設置されていた乗越堤である。少し水嵩が増えれば、その部分から川の水を溢れさせ、城下町など人が多く住む地域を洪水から守るためだ。土地の低い岩成沖や神辺沖が遊水地としてあてられた。
 爾来毎年のように大水の被害を受けてきたこの地の人々の辛苦は筆舌に尽くしがたい。それでも江戸時代には、お上の定めには逆らうこともできなかったが、明治10年頃より、人々は生活を守るため、乗越堤に砂を盛るようになる。これが砂堰(砂土手)である。
 忘れてならない水の歴史

中津原の砂堰プレート
 
 砂の土手はもとより堅固さはなく、洪水時には放水路として切らなくてはならないが、洪水の被害を少しでもくいとめるため、砂土手は次第に高く積み上げていくようになる。しかし、もともと城下町のあった左岸より右岸の方が堤防を低くしてあったので、砂土手が高くなるほど、郷分・山手側の堤防が決壊しやすくなってしまう。被害が出る前に一刻も早く砂土手を切らせそうとする者たちと、できるだけ持ちこたえさせようとする中津原・森脇・岩成の村人たちは激しい争いを繰り返した。
 明治22年、3尺の高さの砂土手は設けてよいという協定が締結され、その基準となる石柱が据え付けられた。3尺、わずか90センチほどの盛り土である。今の土手の高さから考えれば、いかに低かったかわかるだろう。
 その後も、毎年のように繰り返される大水の被害。ひとたび川が決壊すれば、濁流が村を襲い、何日も水は引かない。水が引いても一面砂の原である。その砂をまた川へ戻す作業が二十日以上続く。さらには稲の植え替えと、現代人の想像を絶するような過酷さである。その苦難は、実に昭和12年中津原に広い河川敷ができ、現在の堤防が築かれる時まで続いたという。
 現在、河川敷のゴルフ場片隅に砂堰跡の石碑板が埋め込まれている。羽賀橋から川沿いに少し上流へいったあたりである。石柱は森脇八幡宮へ移築されている。その石柱には「我々芦田川沿岸地方住民の命を守るために、多年悪戦苦闘の古戦場であった羽賀砂土手の由緒あるこの標柱、めまぐるしく変わる世の中、跡形もなく消えてなくなることをおそれ、ここに移築して、祖先の恩を感謝する材料とする」という意味が刻まれている。忘れてはならない重いことばである。


中津原ゴルフ場の片隅。写真左下にプレートが埋められている。

備陽史探訪の会
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