第132回   産業から視る備後遺産―1―

  
 失われた保命酒?

太田家住宅内。保命酒醸造用の瓶であろうか。

 このコーナーを始めた頃、「水野勝成の遺したもの」というシリーズで、遺跡から文化・産業まで今に継承されているものを綴っていった。遺産は決して、形のあるものだけではない。このたびは、経済や産業の視点からどんな遺産があるのか、みて歩こうと思っている。
 2010年の鞆は、「龍馬伝」の影響もあって、大変な賑わいだった。その鞆のお土産で、まず思い浮かぶのが保命酒だ。
 保命酒は、鞆の万古屋の誘いを受けて鞆に移り住んだ大阪の漢方医・中村吉兵衛が、万治2年(1659)家伝の薬方を加えた薬酒の製造を始めたことによる。
 江戸中期には、福山藩から醸造と販売の独占権を与えられて、豪商へと成長していった。13種類の生薬の配合は門外不出とされ、公家や上級武士、豪商などが愛好。頼山陽も好み、また朝鮮通信使やペリーにも振る舞われたという。
 明治時代になり、他業者が参入してくると、中村家は廃業に追い込まれた。
 現在は、町内の四業者のみが16種類の生薬を使った保命酒をそれぞれの方法で醸造している。13種類の生薬を配合した元祖保命酒の伝統は完全に途絶えたと思われた。しかし去年、明治期の中村家文書に生薬16種類の記載が発見された。中村家でも生薬の配合を変更していたと考えられる。時代の流れの中で、保命酒はその形や味を整えながら、しっかりと受け継がれていたのである。
 注目の鞆皿山窯跡

『特別展・江戸末期からの鞆皿山焼』(2009福山市鞆の浦歴史民俗資料館)の一部。鞆皿山窯の写真。
 
 新聞を賑わせたのは、古文書ばかりではない。中村家では幕末に保命酒を入れる徳利などを造るための窯を築造していた。その皿山窯跡が、注目を浴びた。 
 鞆町後地の海岸沿いの山林にある窯跡は、全長約51メートル。斜面にそって12カ所の焼成室が連なる構造で、江戸末期の窯跡としては全国最大規模のものである。
 窯の近くには粘土の採集場と、鞆皿山焼を出荷するための船付き場跡もある。陶工が住んだ家や工房もあったとみられており、全貌が解明されれば、鞆の経済活動の大きさを再認識することになりそうだ。
 窯は慶応元年(1865)に生産が始まり、昭和13年(1938)まで稼動していたという。
 頼山陽が愛飲した中村家の13種類の生薬を配合した保命酒は、どんな味だったのだろうか。今はもう知る術はないが、鞆の保命酒はこれからもずっと受け継がれていくに違いない。
 中村家の豪商ぶりが伺える家屋は「太田家住宅」として一般に開放されている。各地に豪商の家は残されているが、洒脱さにかけては群を抜いているのではないか。そしてまた、新たに加わる「鞆皿山窯跡」。これらの歴史遺産をどう守り伝え、町づくりに活かしていくかによって、昔とは違った経済効果が期待できるのではないだろうか。



備陽史探訪の会
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