第126回      平家谷の伝説―5―

  
 通盛神社と小宰相局

 通盛神社本殿。拝殿には平家の紋(蝶)が彫られている。が福泉坊にある子宰相局の墓。

 小宰相の墓のある福泉坊を後にして、さらに奥へと車を走らせる。山が左右に迫る谷あいの道を行くと、やがて通盛神社と花しょうぶ園の入口へと辿りつく。この辺りこそ、平家武者の気配を色濃く残している「平家の谷」と言えるだろう。
 通盛神社は、その名が示す通り平通盛公をお祀りした神社であり、御神体は通盛と小宰相局の木像という。『備陽六郡志』にも、通盛は束帯、小宰相は帽子に介取の姿、彩色は施されていないとある。
 創建は建久3年(1192)、現在地より南へ200メートル「喜勢(きせい)」の地にあったが、度重なる水害から守るため、江戸時代に今の場所へ遷宮された。「喜勢」は、源平能登原合戦の折り、能登原から山越えしてきた一行と八日谷から逃れてきた一行が出会った場所で、再会を喜び気勢をあげたことから名付けられた。


 明和6年(1769)再建の社殿をはじめ、拝殿、手水社と境内のあちこちで観られる揚葉蝶の紋と赤い紙垂。そして、境内の片隅にある通盛の従者たちのものとされる五つの苔むした自然石。ものの哀れを誘われると共に、凛とした平家の誇り高さに胸を打たれる思いがする。
 その昔、旧暦8月13日の祭礼には、海戦で命を落とした平氏の魂が宿る「平家蟹」が、能登原から山を越え、参拝にきたと語り継がれている。
福泉坊本堂。
 平家谷の真実を訪ねて

 つばき園の中。能登原への道が続く。左手は四ツ堂(移転したものか?江戸時代、中山南には3宇の憩亭があった。)
 
 通盛神社が元あった場所は、古宮跡と呼ばれ、現在は花しょうぶ園の中にある。シーズン中は入園料が必要だが、ぜひ足を延ばしたい。
 通盛お手植えの松とされる「一本松」(すでに枯死してしまい、二代目が育っているある)や、今も清水が湧き出る「平家さんの井戸」もある。
 通盛の足に蛭が喰いついた時、「落人となってしまった今、汝ごときまで我をあなどるのか」と、蛭を切り捨てたという話が伝わっている。その時、蛭が黒い血を流したことに因んでつけられたのが「黒血山」である。
 花しょうぶ園の奥は、つばき園だ。花しょうぶ園からつばき園まで続く道は、古くは、能登原へ続く旧道であった。源平合戦から遠く、半世紀もの時を経て、江戸時代の旅人はどんな昔語りをしながら、この道を歩いたのだろうか。
 平家谷ツアーをするならば、最後は、この辺りをゆったりと散策しながら、落人たちの胸中に思いを馳せるのもいいだろう。あるいは、江戸時代の旅人になって、半世紀昔の平家の落人にどういう思いを抱いたのか空想するのもおもしろい。
 歴史の事実はひとつしかないが、その土地に眠る真実は訪れる人の数だけあるはずだ。
 通盛神社は、「平家さん」と呼ばれ、男女仲を良くする神社としても親しまれているという。若いカップルの隠れスポットにもいいのではなかろうか。



備陽史探訪の会
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