第124回    水野勝成が遺したもの―39―

  
 深草神社と抱き沢瀉

拝殿前に置かれた供物台

 御幸町森脇を北進する県道391号線森脇北の交差点を左手方向に入り、かつての街道筋を下岩成へ少し進む。車で走っていると少々わかりにくいが、左手に神社の参道が現われる。その正面奥に深草神社が鎮座している。ご祭神は大己貴神(おおなむちのかみ)、古くから下岩成の氏神様だという。
 由緒はこうである。明暦2年(1656)、野田氏に仕える女が投石というところで尿をしたところ、深草大明神が現われ、もし瑞垣を造って祀れば氏人を守るという託宣があった。そこで、祝詞を奏上し、その地を掘ると鏡が一面出てきた。裏に大己貴命、表に深草大明神の銘があったので、一祠を建立し、神田を添えて祀った。
 お参りして最初に「おや?」と思うのが、拝殿前に置かれた石の供物台である。その正面に抱き沢瀉の家紋が彫られている。これは、水野家の紋ではあるまいか?
 よく見れば本殿の鬼瓦にも抱き沢瀉がついている。
 抱き沢瀉のついた神社は他にもある。新市町の吉備津神社や北吉津町の福山八幡宮である。しかし、両社とも水野氏と社殿造営の関わりは明白で、社殿に家紋があっても何ら不思議ではない。では、この神社はどういう関わりがあったのか。

 断絶の後の沢瀉

深草神社参道入口
 
 元和5年(1619)水野勝成が備後へ入封してきた時代、このあたりは芦田川の度重なる氾濫で湿地帯となっていた。そのため、当初は狩り場とされていたようだ。そして、狩りの休憩所として、また領内巡視の際の宿泊所として、下岩成の宗岡に茶屋が建てられた。
 やがて時代は下り、芦田川の護岸整備が進み、森脇一帯は穀倉地帯へと変貌していく。四代勝種の時代には、茶屋はほとんど使われることがなくなったのだろう、村人は藩に茶屋を払い下げてほしいと願い出た。しかし許可されなかった。その後元禄11年に水野家は断絶。茶屋のあった場所に深草神社が建立された。
 『御幸町の史跡散歩』には「元禄10(1697)年、時の庄屋岡本伊右衛門と勘十郎が発起し、助五郎の所持する信塚といわれる屋舗を村中で買い取り、社殿を造営。この時、水野氏が使っていた宗岡の茶屋を壊し、材料を使ったと思われ……」とある。
 詳しい状況はわからないが、本殿造営に家紋の瓦をそのまま転用したのであろう。
 鬼瓦が当時のものなのかどうか不明であるが、供物台は昭和時代のものである。茶屋跡、そして新田開発と、水野氏との関わりを尊重し、それを継承するため、あえて家紋をつけられたのだろうか。
 勝成シリーズ第37回「晩翠舎」の時も、屋根瓦の抱き沢瀉が出発点だった。
 思わぬ場所で抱き沢瀉を見つける度、水野勝成の遺した福山をより深く知りたくなる。



備陽史探訪の会
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