第123回     平家谷の伝説―4―

  
 小宰相の墓

福泉坊にある子宰相局の墓。

 赤旗神社を後にし、左手にある「鐙峠」「乗越」などの標識を過ぎて、さらに奥へと進んでいく。
 左手に「弓場」「館」「広場」の説明板を見れば、すぐ右手向こうに「福泉坊」の参道がある。
 軽自動車では青息吐息のかなりの急坂を上っていく。道は狭く、対向車をかわすのも難儀だ。それでも、桜の季節には多くの車がこの急坂を行き来する。樹齢200年を越す福泉坊のしだれ桜は、有名な桜の名所であり、毎年多くの人の目を楽しませてくれる。
 しかし平家の里めぐりをするなら、裏手の桜より本堂正面の方がお薦めだ。正面やや左手にある鐘楼のそばに椿の木がある。季節には、たくさんの花をつけ、周囲の地面を赤く降り染める。どこか寂しげで、それでいて艶やかな風情は、心のひだをゆるやかに震わせる。


福泉坊本堂。
 禁じられた白色

月高山福泉坊は、光照寺の末寺である。『沼隈郡誌』によれば建立は天正10年(1582)とある。平通盛亡き後小宰相の局が通盛の遺像を奉祀し、遺子秀盛から代々受け継がれていたが、15代目の平秀商が顕如上人に帰依し、秀圓と名乗り、開基した。第七世秀観の時には通盛神社と赤幡神社の別当職を司っていたこともある。
 また、『備陽六郡志』によれば、こういう逸話も残されている。
 この谷では往古より綿を植えてはいけないと云われていたが、福泉坊では、我らは一向宗であり、寺内であれば咎もないだろうと綿を植えることにした。もし今年植えて収穫できればまた来年も植えようと考えていたが、つぼみもできず、枝葉はだんだんと凋んで枯れてしまった。その秋、寺内には疫病が流行り、位の高い僧侶から下男まで死んでしまい、以来、恐れて綿を植えようという者はなかった。
 もともとこの谷では白い物を禁じており、男女下帯、手ぬぐい、襦袢、明衣に至るまですべて染めて使っていた。白い物を用いれば災いが起こるとされており、綿・夕顔なども植えなかった。また、池や田にも白鷺は舞い降りなかったという。白い鳥獣も棲んだことがない。
 そこまで徹底して白色が存在しないというのは現実的ではないかもしれないが、実際谷に立つと、それがまるきり作り話とも思えなくなる、妙な説得力があるから不思議なものだ。

山門脇の椿。春の境内は、花の園となるが、ひときわ赤色が目を引く。




備陽史探訪の会
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