第122回     備後の四ツ堂(31)

  
 福山市藤江町通畑 「地蔵堂」

  堂の右手に上へ行く道、下へ行く道があるようだ。
  移築時にはまだ使われていたのだろう。今は通う人はいないようだ。

 沼隈から松永に抜ける県道47号線は、明治時代に整備された道路である。ことに八反峠のあたりは西側から道筋をつけかえたと聞く。現在八反峠にある堂も、明治時代に山路機谷が始めた茶接待の休み処であり、水野勝成が作らせた江戸時代の四ツ堂とは異なる。では、それまでの街道はどこを通っていたのか。通畑の集落を貫いた道がそうではなかったか。明治30年の地図には、通畑経由の道は「連路」と表示されている。ある程度の交通量はあったのだろう。
 沼隈から八反峠にさしかかる付近から、左に入り、山の方へと上っていくと、通畑の集落である。現在は部外者が通行するような場所ではないが、それゆえ、旧道の風情を色濃く残しているようだ。
 その通畑の集落を抜けてさらに進むと、墓地の手前、峠にさしかかる。右手に上へ下へ続く二本の道、左手にも上へ下へと続く二本の道。どの道も今は使われていない道だろうが、なんとも複雑な辻である。その中心に四ツ堂が建っている。
 棟木に打ち付けられた札のひとつには「文化十三年建立」とあり、もうひとつには「大正二年四月に中組よりこの地に移す」とある。かつては道沿いに多くの四ツ堂があったことだろう。

 

柱の下部の傷みがひどい。移築した時のままであれば、100年以上経過。
耐久年数の限界であろう。

 この堂は、草葺トタン覆いの四本柱、吹き放し。床面はコンクリート敷であるが、草葺の一部は欠落し、四本柱は虫に喰われ朽ちている。須屋には色鮮やかな生花が活けてあり、今でもどなたかお参りされているのだろうが、四ツ堂の機能は遠い過去に終え、今はただじっとそこで終焉を待っているかのようだ。しかし、そのまま終らせるには惜しいほど、泰然とした立派な堂である。
 この堂は、子供時分にこの堂で遊んだという知人から教えていただいた。昭和の時代、四ツ堂を遊び場にしていた子供は多くいた。現代でもそういう例はある。いつの時代でも四ツ堂というのは、子供たちが集いやすい場所なのだ。
 幼い日の遊び場所として、大人たちの記憶に残る四ツ堂は相当数あるだろうが、現存しているのはいかばかりだろうか。


木とロープと藁葺の昔ながらの屋根組。トタン覆いとなっている。

備陽史探訪の会
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