第118回     

  
 塩田と下駄の町

松永駅南口の「浜子像」。塩田の様子の一部を再現したものだという。

 松永といえば、塩田と下駄の町というイメージがある。
 万治3(1660)福山藩士・本荘重政が塩田開発に着手。この地を松永と名付けて以来、塩田の町として300年の歴史を誇ってきた。まさに塩田から生まれた町である。しかし明治なると徐々に衰退。昭和35年(1960)に完全に終止符を打つ。
 一方、下駄の方はといえば、明治11年(1878)丸山茂助氏がアブラギで下駄作りを始め、大正時代になると製塩業を凌ぐ成長を遂げる。昭和に入って衰え、次第に下駄産業は歴史の波間に消えていった。しかし、その歴史は決して消えたわけではない。ゲタリンピックなるイベントも毎年開催されていし、産業遺産の保存も手厚くされている。
 塩と下駄、一見つながりはなさそうだが、下駄造りは製塩業から生まれたといっていい。裏日本から塩を積みに入る空船に木材を積めば運送の無駄がない。積んできた原木はそのまま松永湾に浮かべて貯木しておくのも効率が良い。
 そして、もうひとつ都合が良かったのが、塩田に縦横に張り巡られたクリーク(入り川)である。これは、塩田に海水を引き入れるために造られたものだが、これを原木の輸送路として活用した。
 塩と下駄は、二人三脚の産業だったわけである。

 よみがえるクリーク

かつての入り川は整備され水辺公園となった。

 しかし、塩田は埋立てられ、市街地として著しい変貌を遂げ、現在、駅前に本荘重政の像が立つ他は、塩の町としての面影はなくなってしまった。
 近年までその姿を残していたクリークも、すっかり姿を変えた。一部は埋立てられ、他は、「クリークがもっている水辺と空間を有効に利用するために、 雨水幹線としての浸水対策、そして水辺周辺を水環境創造事業として一体的に整備」された。
 レンガ敷の遊歩道、季節の花々、丸太の手すり越しに下を望めば、鏡のような水面には青空や町の様子が写しだされている。そぞろ歩けば、ベンチもあれば、かつての塩田の風景を表したレリーフもある。悪臭を放っていた川は、見事に水辺公園として再生され、「よみがえるクリーク」として「蘇る水100選」に選ばれた。
 しかし、クリークは本当に蘇ったのだろうか。
 かつては、満潮になるとクリークには勢いよく海水があがってきたという。河口はそういうものであろうが、松永クリークはもともと塩田に海水を引き入れるためのもの。その圧倒的な迫力は推して知るべしだ。それが今では堰が設けられ、川の潮位があがることはない。必要あっての堰なのだろうが、堰止められた入り川は、もはや川ではなく池である。 
 遠く湾に目を転じれば、銀色に煌めくさざ波に、筏の群れが悠々と浮んでいる。運送路であった羽原川は今なお往時の風情を残している。しかし、塩釜の匂いのする風景はもはや無い。塩の町・松永が人々の五感に届くことは、もうないのであろうか。


備陽史探訪の会
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