第117回     平家谷の伝説 -2-

  
 八日谷と大岩の食卓

岩神神社。右側の細い道は明治時代の地図では確認できない。

 県道72号線の「平家谷」の看板を左に折れると、道は横倉川に沿う。それを少し上り、右にカーブした少し先、右手に橋が架かっている。その橋の先を少し上ったところに神社が鎮座している。少し奥まったところにあり、主要道からはわかりにくいが、道沿いなのですぐ見つけることができる。
 切妻屋根の拝殿がある右側が岩神神社、左側は荒神さんだ。由緒は両社とも不明。岩神神社のご祭神は金山彦命(かなやまひこのみこと)と金山姫命(かなやまひめのみこと)といずれも鉱山の神様であるが、もとは背後の岩山をご神体として祀った神社ではなかったろうか。
 両側の山が迫ってきてないせいか、谷あいという感じはあまりしない。この谷を八日谷と云い、平家伝説に由来する地名である。
 屋島から壇ノ浦へ平家の一団が逃れていく途中、能登原に上陸。そこから森陰や岩陰に潜みつつ、谷を辿った。途中谷が急に狭まったところに八日間留まったため、この谷を「八日谷」と呼ぶようになった。その時食卓代わりに使ったという大岩が、岩神神社の境内に残っている。
 この谷を通盛が通ったかどうかは謎である。源平能登原合戦の後、八日谷を辿ってきた一行と能登原の山越えをしてきた一行とがあるためだ。本シリーズでは、八日谷ルートを辿ることにする。

 沈んだ刀石と横倉

八日谷ダムの刀岩の案内看板。平家谷の看板はすべて赤い。

 能登原から岩神神社までの通盛一行の道筋は不明である。おそらく当時海が入り組んでいた草深の奥の方まで船で進み、そこから陸路を取ったのだろう。そこから川沿いに上っていくと、八日谷の南方向へと行きつく。そこから木々をかきわけると、八日谷の岩神神社のあたりへ抜ける。
 さて、その谷で落ち着こうとした一行であるが、大岩の側を流れる川の上流から椀と箸が流れてきたため、もっと奥に人が住んでいる、もっと上流へ行こうということになり、さらに川をわけ入ったという。
 当時は道なき道を行くがごとしに難儀な事であったろうが、現在は立派なバス道路がついている。楽々と道なりに上っていくと、やがて八日谷ダムが見えてくる。もちろん当時、ダムはなかった。そのかわり、大きな岩があったようだ。
 通盛は、武運を試そうと路傍のその大岩に刀を打ち立てた。高さ27メートル、幅18メートルほどの切り立った岩には、刀傷が二箇所残されたという。
 その岩は「刀岩」と呼ばれていたが、昭和38年のダム建設により、堤防の底になってしまった。学術的な根拠もなく、高度成長期の真っ只中、埋没も仕方のないこととはいえ、少々残念である。
 ダム湖を半分ほど過ぎると、いよいよ平家谷に入る。現在、このあたりは横倉地区であるが、『備陽六郡志』には八日谷、平家谷、横倉谷と記されている。「横倉」の地名は、あまりに狭く険しい道のため、馬の鞍が横に傾くほどだったため、そう呼ぶようになったと云う。
 進むにつれ、次第に山が迫り、辺りの風景は平家谷の色を濃くしてゆく。


備陽史探訪の会
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