第109回     足利義昭の足跡 ― 8 -

  
 ミステリアスな歴史

イコーカ山山上にある宝篋印塔

 備後には、足利義昭の墓がふたつある。ひとつは、熊野常国寺の将軍塚であり、もうひとつは、赤坂イコーカ(可行乎)山の宝筺印塔である。
 国道2号線赤坂手前、一般国道と赤坂バイパスの分岐点、その二股に挟まれるように、イコーカ山は存在する。
 山といっても、小高い丘である。その頂上には古墳があり、左手に回ると、石鎚神社が祀られている。そのさらに奥の径を上がると、相輪を欠いた宝筺印塔が建っている。
 丘の南西斜面であるその場所からは、かつて義昭の居館があった津之郷が一望できる。斜面には燦々と陽光が降り注ぎ、風がそよぎ、眼下に開け放された眺望と、いかにも義昭が好みそうな場所である。傍らの花挿しには水々しいササキが活けられ、新鮮な水も供えられている。毎日のようにどなたかがお参りされているのだろうか。この場所が、今も生き続けている歴史の舞台であることを感じさせる。
 しかし、この宝筺印塔は『中国行程記』には池奉行の墓とあり、『備陽六郡志』では、義昭の墓としながらも断定はしておらず、北条時盛の石塔と云う人もいるとある。
 確かに、天正15年(1587)に上洛した後、足利義昭が下向したという史料は今だ見つかってはいない。

 誇らしい郷土史

 昭和45年頃撮影のイコーカ山。てっぺんの大樹の傍らに宝篋印塔が見える。
 撮影場所は備後赤坂駅をおりてすぐの場所より撮影。

 では、備後に残された墓は、誰の墓なのか。全く別人のものなのか、あるいは、義昭に縁をもつ誰かが、彼を偲んで建てた供養塔なのか。歴史学的には、意味のないことなのかもしれないが、誰かのために建てられた宝筺印塔ならば、その慈しみにあふれた心根を、価値あるものだと感じる。その価値を現代まで受け継いだ人々の歴史を尊いと感じる。
 実際、よく手入れされたこの場所で、連綿と受け継がれて来た周囲の風景をただ眺めていると、歴史の真実とは何かと自問したくなる。
 帰京を果たした足利義昭は、出家し、道号を昌山、法名を道休とした。幕府再興という夢は潰えたが、京都では、一万石の知行を与えられ、落ち着いた余生を送ったようである。
 思えば、永禄8年(1565)兄義輝が暗殺され、興福寺一乗院より脱出してから、大和から近江、若狭、越前、そして美濃へ。一時は室町幕府を再興したものの、織田信長と敵対し、追放。紀伊を経て、天正4年(1576)備後の鞆へと流れ着いたのである。
 足利幕府が興り、そして滅んだ因縁の地ともいえる鞆。その足跡は現在、鞆の膨大な歴史遺産の狭間に埋没してしまっている。しかし、決して葬り去られたわけではない。絢爛豪華な歴史絵巻もよいが、微かに息づいている歴史の断片にも眼差しを向ける柔軟さを持ちたいものである。そうすれば、郷土がいちだんと愛おしく、誇らしくなってくるだろう。


備陽史探訪の会
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