第108回      足利義昭の足跡―7―

  
 田邊寺での幕引き

田邊寺参道

 足利義昭は、鞆から熊野の常国寺へ一時身を寄せた後、津之郷へと居館を移す。その年代は明らかではないが、天正10年(1582)頃のこととされている。御殿山については、当シリーズ足利義昭の足跡―2―で取り上げたが、その御殿山時代、上洛の希望を容れられなかった義昭は、諸国の大名に働きかけ、秀吉に対抗しようとしていた。しかし、天正14年には島津氏に秀吉との和平を勧めるなど、態度を和らげた。そして翌15年3月、秀吉が九州出征する途中、備後の赤坂にて、義昭は秀吉を出迎え対面している。
 会見についての史料は残されているが、その場所は赤坂のどこであるかは特定できていない。伝承によると、その会見場所は津之郷の田邊寺(でんぺいじ)とされている。
 田辺寺は、奈良時代・養老5年(721)に創建された「和光寺」の後身と言われる。和光寺は、平安時代まで栄えたが、中世に入ると衰退。これを再興し菩提寺としたのが、津之郷串山城主と伝わる田辺越前守光吉だ。寺号も自身の苗字にちなみ「田辺寺」と改めた。永禄5年(1562)の創建である。
 近年、寺の南の畑地から九輪や風鐸や塔の中心礎石などが発見され、廃和光寺塔址出土遺物として県の重要文化財に指定されている。塔の中心礎石は現在、田辺寺境内に移動されている。

 幕府の終焉

境内に移された和光寺塔の中心礎石

 田辺寺は、津之郷町の山陽道(御幸松永線)を少し北西に入った場所にあるが、当時、七堂伽藍の壮大な敷地は旧山陽道沿いにあったようだ。
 畑に伸びた参道入口から山門を眺めると、往時の堂々たる名刹の風貌が偲ばれる。
 仔細はわからないが、この境内のどこかで、義昭と秀吉は対面を果たしたのであろうか。
 義昭は秀吉と和睦し上洛を受諾されるのであるが、引き換えに征夷大将軍の座を退き、出家することを了承した。ここに、完全に幕府は消滅する。織田信長に追われ備後に下った天正4年から、11年後、義昭51歳のことである。
 幕府再興の夢ついに叶わなかった義昭の胸中はいかばかりであったろうか。あるいは長い長い戦いの末に、やっと辿り着いた望郷の地への想いの方が強かったか。境内に散った数片の山茶花の花。その儚げな淡い紅に、義昭の心中を重ねてしまった。
 会見を終え秀吉が九州に旅立つ時、義昭は一腰の太刀を贈ったと記されている。その年内に、念願であった上洛を果たした。その後、秀吉の庇護を受けつつ、10年後の慶長2年(1597)61歳で京都にて逝去している。
 上洛後、備後に下向したという記録は一切ないが、なぜか現在、備後には二箇所、義昭の墓が伝わっている。ひとつは前回紹介した熊野常国寺の将軍塚、もうひとつは次回に取り上げる赤坂イコーカ山の宝篋印塔である。


備陽史探訪の会
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