第105回      足利義昭の足跡―6―

  
 鞆から熊野へ

常国寺山門。石段を上っていくと市重文の唐門(将軍門)がある。

 天正10年(1582)、本能寺の変が起こった年、広島では沖家騒動(秀吉の調略により来島村上氏が離反、厳島が騒然となる)があった。一方、因島村上氏は毛利氏に忠誠を誓っており、鞆に差し迫った危険はなかったが、吉川元春は義昭の警護を厳重にさせており、義昭自身も移転を希望していた。信長が死んでしまったので、本当はすぐにでも上洛したかったところだろうが、ひとまず御座所を鞆から津之郷に移すことになった。津之郷の居館跡についてはシリーズの2回目で取りあげたが、そこに移る前に一時的に熊野の常国寺に身を寄せていたとの説がある。
 常国寺の開創は諸説あり明らかなことはわからない。一説によれば、渡辺兼が、文明年間に一乗山城を築いた折りに、城の麓に、渡辺氏の菩提寺として常国寺を建立したと云う。以後、渡辺氏は、房・高・元・景と、関ヶ原の戦いで敗れるまで、一乗山城主として熊野の地を治めていた。
 渡辺元は、毛利氏を頼って鞆に来た義昭の警護と接待役を務めた。将軍を深く讚えており、義昭を鞆から常国寺に迎えたと云う。当寺には、義昭着用の胴肩衣や「白の傘袋」「毛氈の鞍覆」の使用を許した御内書が、今も残されている。

 国賊の汚名

常国寺裏手の山にある将軍塚。

 かつては鞆への街道であった熊野の道を、南へ進んで行く。右側に稲穂を眺めながらなだらかな坂を登り切ると、水を湛えた熊野貯水池が目に飛びこんでくる。
 豊富な水を湛えた池の向こうにそびえるのが一乗山。右手の土手を渡ると、常国寺だ。
 鐘楼、番神社本殿、唐門は、市重文である。唐門は将軍門とも呼ばれており、義昭が寄進したものと伝わる。鏡板に彫られた乱れ桐の彫りは珍しいものである。
 境内から裏手の山へ続く道を少し登ると、深い緑の中にひっそりと将軍塚が立っている。石積みの中心にまるで投げ置かれたような宝篋印塔の相輪。その隣には寄りそうように、石灯籠と五輪塔。
 『沼隈郡誌』によれば、義昭の遺言によって尼子新左衛門なる使者が分骨並びに遺物をもってきて、寺に納めたとある。その将軍塚が五輪塔であるとしているが、年代的に、隣の宝篋印塔が正しいようだ。
 『福山市熊野町誌』には、「戦前は高さ30センチ、1メートル角の土台の上に宝篋印塔が建っていたが、戦時中に子供らが足利は国賊だといって塔を谷に落としたらしく、現在は相輪のみが只一本48センチ角の石の上に立っているだけ」とある。
 日本の歴史の中で、長い間、足利氏は国賊であった。そのため、鞆にも多くの義昭の足跡があったはずだが、ほとんど知る人もいない状況であろう。それでも、地道に研究されている方や、受難の時代にあって遺品や史跡を保存されてきた方のおかげで、義昭の足跡にひとつずつ光が当たってきている。


備陽史探訪の会
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