第102回      足利義昭の足跡―5―

  
 鞆幕府の最盛期

山名鹿助の首塚横にある静観寺山門

 「備後の遺産を訪ねて」第53回「杉原盛重」シリーズの中で、盛重の宿敵として紹介した山中鹿介。高梁川阿井の渡しで殺され、その首級が検分のため鞆に運ばれたということを書いた。
 その時、義昭が鞆のどこで鹿介の首と対面したのかわからないが、この頃、鞆幕府は最盛期を迎えていたのは、確かなようだ。
 天正4年(1576)織田信長に追われ、毛利氏を頼って鞆にやってきた義昭。毛利輝元は義昭将軍という錦の御旗を掲げ、信長と対峙することとなる。その年、毛利軍は織田軍勢を破り石山本願寺に救援物資を届けることに成功。
 天正6年には上月城を攻め、秀吉麾下の尼子勢を滅ぼす。尼子勝久は切腹し、降伏した鹿介は護送中に謀殺。上月城から帰陣した武将たちと義昭は鞆城にて祝賀の宴を張る。
 尼子を討ち滅ぼした勢いで織田氏を追い落し再び将軍として権力の座に還り咲くことに期待をかけた義昭だったが、毛利氏は次第に劣勢となっていく。信長死後、天正13年には毛利氏は秀吉と和睦。これを境に、鞆幕府の権威は凋落してゆく。
 義昭が鞆で勢威を誇っていなければ、鹿介の首が鞆にやって来ることもなかっただろう。今となっては「山中鹿介の首塚」は儚く消えた鞆幕府の残滓のようにも思える。

 義昭本陣?静観寺

静観寺境内

 鹿介の首塚は、臨済宗正覚山静観寺の門前にある。この静観寺が義昭の本陣であり、首実検した場所であるという説もあるが、甚だ不確かである。
 静観寺は、鞆町で最も古いお寺で、開基は大同元年(806)。元々は、天台宗の古刹と伝えられるが、後に臨済宗となり、安国寺の末寺となった。
 往古は七堂伽藍を備えた立派な寺だったが、やがて衰退。延慶元年(1308)中興して開山するも、暦應2年(1339)鞆合戦の折り、足利尊氏勢が陣を構えたため、兵火にのまれ伽藍すべて烏有に帰す。残った仏像や典籍を集め小さな庵を結ぶのだが、天文9年(1540)に再び伽藍が焼け落ち、すべてを失ってしまう。元和2年(1616)に再興され、妙心寺派に属し、今に伝わる。しかし、寛政9年(1797)と文化14年(1817)に火災。文政2年(1819)に本堂再建するも、天保3年(1832)落雷により大破と伝えられる。
 これによれば、天正年間、寺は存在しなかったということになる。
 江戸時代には朝鮮通信使の常宿となり、境内には祇園宮の大宮司の歴代墓がある古刹なのだが、度重なる災禍により、多くの文化財と記録がを失われた。当時の本陣の場所を確かめる術はないが、門前に建つ鹿介の首塚の供養をしているのは、静観寺である。
 ひっそりした境内に佇み、静寂に身を浸していると、義昭がこの場所で描いた夢がおぼろに見えてくるような気がする。 


備陽史探訪の会
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