第101回      備後の四ツ堂(23)

  
 福山市藤江町 「八反峠休み堂」

八反峠の休み堂

 県道47号鞆松永線は、古くから松永と沼隈を結ぶ重要な道路であった。
 明治30年より3年かけて藤江町の瀬丸―八反に道が付け替えられた折り、八反峠の頂に「休み堂」が設置された。
 八反の坂は急なため、荷車などは麓で「貸し牛」借りて越さなければならない難所だった。そのため、頂に花崗岩の休息石とそれを覆う四本柱の切妻の休み堂を建て、茶接待を行ったそうだ。八反地区の人たちが夏期2ヶ月間、輪番で、昭和30年代まで続けられた。
 現在は休息石を覆う堂は六本柱の宝形屋根になっているが、堂内に石仏を祀らない姿は昔から変わっていない。
 同じように昭和30年代まで茶接待をしていた「休み堂」は藁江峠にもあった。農免道路の園芸センター近く、ちょうど峠の脇に、今は「永代茶接待」の石碑のみが残っている。
 茶接待をした休み堂は他の地域ではあまり見ることがないのは、山路機谷が自費で設置したものだからだ。
 屋号が岡本の山路家は「砂は尽きるとも、よも岡本の財は尽きまじ……」と謳われた松永の富豪である。

 

藁江峠に残る茶接待碑

 文政11年(1828)に能登原の鞆路に休み堂を設け、夏の茶接待を行ったのをはじめに、前述の八反峠や藁江峠の他に梅ケ峠、鞆坂峠などにも次々と設置していった。機谷は茶接待だけでなく、農免道路に面した岡本池など、数々の公共事業を行っている。
 江戸時代よりさらに古くから存在した辻堂。その精神を引継いだか、新たな福祉事業としてか、江戸の終わり頃より山路機谷の「休み堂の茶接待」が始まった。山路家は明治24年に没落するのだが、その後も茶接待は各村々の人たちに受け継がれ、昭和30年代まで続いていくのである。
 難儀している人を思いやる心、現代も引き継がれているだろうか。今も残る「四ツ堂」や「休み堂」で一休みしながら、思慮してみるのもいいだろう。


備陽史探訪の会
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