第99回      足利義昭の足跡―4―

  
 鞆幕府興る

「白の傘袋」と「毛氈の鞍覆」の使用を許可した御内書

 足利義昭は、小松寺に滞在した後、鞆港の北方に申明亭という居館を構えた。傍らにしつらえた庭園は今も民家の裏庭に在りし日の姿で残っているそうだ。畳2~3畳ほどの茶室跡の礎石も残されている。
 その館近くの小高い丘には御座所が設けられた。
 東国の有力大名や九州の豪族各氏から使者が送られ、将軍義昭に謁見し献上品を奉った。また地元の大名や豪族も、小早川氏をはじめとした各氏がこぞって義昭の元へと駆けつけ、銭、太刀、馬などを献上。これに応えて、将軍も「白の傘袋」と「毛氈の鞍覆」の使用を許可した。これは、幕府が格式の高い大名に使用を許すものであり、鞆幕府が興ったと云われる由縁である。
 御座所が設けられた場所は、鞆港の北方に位置する標高二十四メートルの小高い丘。現在は鞆の浦歴史民俗資料館があり、古くから古城山と称される場所だ。
 ここにはかつて鞆城があり、軍事・交通の重要な拠点として鞆を守っていた。しかし、昔を物語るのは、わずかに残された石垣と、変わらぬ鞆の景色のみ。 
 鞆の町並は江戸時代に形づくられたものだが、弁天島や仙酔島を擁した瀬戸の風景は、足利義昭が眺めたのと同じ風景であろう。

 鞆城の変遷と変わらぬ風景

将軍義昭着用と伝わる肩衣

 鞆城は、天正4年(1576)義昭の御座所を設けた時に築城されたという説もあったが、天文22年(1553)毛利元就隆元父子が出した書状により、毛利氏の命で渡辺房が築城したことが判明した。
 しかし、義昭は鞆城に6年間滞在していたとされ、また将軍着用の胴肩衣の紋所と同型の桐(九七の桐)が浮き彫りされている棟瓦も発見されているので、義昭在所の頃、城館が整備された事は確かである。
 慶長6年(1601)福島正則が安芸・備後の領主になると、備後の守りを固めるため、鞆に城を築く。新たに地ならし、石を畳み、三重の天守閣や大手門・櫓など備わったと伝えられている。毛利時代の城を生かしたのか、まるっきり建て直したのか、いずれにしろ詳細は不明であるが、この頃はさぞ威容を誇った城郭であったろう。
 元和元年(1615)には徳川幕府の一国一城令により、天守閣をはじめ主要な建造物や石垣は取り壊された。
 しかし、水野時代にも鞆は重要視され、二代勝俊は藩主襲封するまで、鞆奉行として鞆古城址の屋敷に住んでいた。
 やがて明治時代には料理屋、その後中学校の敷地、そして現在は資料館に、と変遷してゆく。
 今も残る石垣の石は、白石島や北木島から運ばれたものだそうだ。石の中央には、石工たちが彫った様々な印が刻まれている。その石が積まれた時代に思いを馳せながら、鞆城址から鞆の風景を眺めてみると、また違った感慨がこみあげてくるかもしれない。


備陽史探訪の会
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