第96回      足利義昭の足跡―3―

  
 小松寺と足利氏

沼名前神社鳥居手前の左にある小松寺の参道入口。

 「お手火」や「お弓神事」で有名な沼名前神社。鞆を訪れてた人なら、一度はこの神社に参拝したことがあるのではないか。
 しかし、その沼名前神社の石段の手前、左側にある参道を知っている人はどれぐらいいるだろう。両側に「妙心寺派」「小松禅寺」の石柱が立っている参道を進み、右に折れると、その正面に臨済宗「萬年山小松寺」の山門が見える。
 現在は本堂前の有髪薬師地蔵がよく知られているが、小松寺は歴史上有名な人物たちが足跡を刻んだ古刹である。
 まずは平重盛。安元元年(1175)重盛が厳島神社詣の折り、鞆の浦に立ち寄り、この地に堂宇を建立したのが小松寺の創建と云われている。しかし、『あくた川のまき』には開山については定かでないと記されている。それについては延元四年に足利尊氏の家臣が小松寺に陣取り兵乱となり、堂宇などことごとく散り失せ、縁起が残らなかったためとしている。
 その3年前、延元元年(1336)足利尊氏はこの小松寺を本陣とし、光厳上皇の院宣を待ったのだ。この地で院宣を手に入れ、挙兵。この瞬間、尊氏は朝敵という汚名を返上できたわけだ。
 忘れられた記憶を辿って

小松寺本堂。

 南北朝時代に焼失した小松寺がどのように再興したか不明であるが、天正4年(1576)室町幕府最後の将軍足利義昭が、鞆に逃れ、小松寺に身を寄せる。
 足利氏初代の将軍がここで挙兵し、最後の将軍が再びここで再起を賭けたのだ。そのため「足利氏は鞆に興り、鞆に亡ぶ」と云われている。
 小松寺での歓迎の宴の後、義昭は鞆城へ移り、幕府としての活動を始める。いわゆる正史に載らなかった鞆幕府の誕生である。しかし、明治時代、足利氏は再び朝敵(国賊)とされたせいか、その足跡はあまりに希薄だ。  
 現在、小松寺境内には、重盛の墓の他に、琉球使節に関する遺物がある。
 ひとつは「琉球司楽向生碑」。鞆町奉行が琉球使節の接待を勤めていたが、「江戸上り」の途中、楽師・向生が鞆で病死したため、小松寺に埋葬された。その折り、墓石と共にこの追悼碑が、福山藩によって建てられた。
 もうひとつは「容顔如見(ようがんみるごとし)」の扁額。寛政8年(1796)に琉球使節が、向生の七回忌の供養に小松寺へ奉納したもので、今も本堂に掲げられている。
 かつては重盛が手植えしたとされる見事な松があり名所となっていたが、こちらは昭和29年の台風で倒伏した。
 淙々たる足跡を誇る小松寺であるが、焼失やたびたびの寺域の分割、そして荒廃で、歴史の表舞台から降りた感は否めない。しかし小松寺は、今も歴史を重ねている。有髪薬師地蔵に詣でる折りには、今一度、当寺の歴史の深さを噛みしめてほしい。


備陽史探訪の会
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