第95回      

  
 江戸時代の番所

福山藩側の石標。これより東、福山領と刻まれている。

 2008年、坊地峠の福山藩番所が4年ぶりに本格補修された。
 現在の尾道市高須町の坊地峠。尾道バイパスから地道を入り、旧山陽道を行く。狭い道をくねくねと上っていくと、坂を上りきったところに2本の石柱が立っている。東側に「従是東 福山領」、西側に「従是西 芸州領」。江戸時代、この坊地峠が福山領と芸州領の国境であった。
 もともと福島正則が治めていた芸備の地に国境が出来たのは元和5年(1619)。領内が広島城42万石の浅野氏と、福山城10万石の水野氏に分治されたことによる。石高が示す通りに、福山藩の石標より芸州藩のそれの方が大きくなっている。少し口惜しい気はするが、今も都市名として存続し発展している「福山」という名が遠い過去の歴史を身近なものにしてくれる。
 国境が定められた時、それぞれの石柱近くの小高い場所に両藩の番所が建てられた。江戸時代を通じて、大名行列、お伊勢詣り、地方巡業者、行商人や飛脚など、数え切れないほどの旅人や荷動きを見張っていたのである。
 旅人は坊地峠をゆく

福山藩側の番所だった建物。

 明治の廃藩置県で国境はなくなり番所は廃止、その建物もしだいになくなっていった。
 現存する番所の建物は全国的にも珍しく、特に現地にあってかつての街道を見下ろせるそのままの条件で残されているのはこの坊地峠の福山藩番所だけなのだそうだ。
 福山領の石柱から少し離れて奥の畑地の方から番所の敷地へお邪魔した。1976年頃まで人が住んでいたそうで、あちこちに改築の跡が見える。屋根は雨漏りを防ぐシートで覆われたままの姿を晒している(2009年当時)が、この補修は「行政からの支援を受けられるまでの応急処置」なのだ。2001年に発足した保存会は募金活動や歴史調査を進められているようであるが、やはり本格的な保存には行政の支援が必要であろう。
 2009年、尾道市の教育委員会で調査中だそうだが、保存にむけて多いに期待したいところだ。峠に立つ説明板の最後の「私たちはこの坊地峠の歴史と、番所独特の建物を、是非とも後世に残したいと願っております」という保存会の方の切実な思いが胸に迫る。
 番所の敷地に佇み、往時の風景が今も偲ばれる旧山陽道を見下ろせば、過去の様々な旅人の姿が景色の中にうっすらと透けて見えるようだった。番所が江戸時代の建造当時の姿に戻れば、もっと郷土の歴史は身近かなものになるだろう。


備陽史探訪の会
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