第90回      足利義昭の足跡―1―

  
 足利義昭と備後

2009年の蔀山神社。

 2009年のNHK大河ドラマは「龍馬伝」で、当時、鞆の浦も龍馬の話題が多かった。しかし、万葉の昔から潮待ちの港として栄えた鞆の浦は、龍馬だけでなく、多くの著名人がかかわりを持っている。
 その最たるは足利義昭ではないだろうか。
 室町幕府最後の将軍義昭は織田信長に追われ、1576年(天正4)に毛利氏を頼って備後の鞆ノ津へ上陸した。その時、歓待を受け、しばらく滞在した「小松寺」には、現在居館跡の碑が残されている。その後、義昭は城山に移り住み、政権奪回を狙った。鞆幕府の誕生である。それから10年余、再び上洛するまで、義昭は備後各地に足跡を残してる。
 「鞆に興り、鞆に亡ぶ」と謳われた足利家最後の将軍として、鞆との関わりが深かった義昭だが、備後での足跡については、史料も少なく、あまり知られていないように思う。 
 鞆幕府時代、城山の他に津之郷と蔀山に居館を構えたと伝えられている。津之郷の居館跡については、小林定市氏が発表された「足利義昭の上國について」(『山城志第19集』2008年)に詳しい。
 『西備名区』に「蔀山御所屋鋪」と記されている蔀山は、現在、「伝足利義昭居館跡」として市の史跡にされている。
 謎の「蔀山」伝説

2013年の蔀山神社。屋根の一部が落ち老朽化が進んでいる。
現在は修復されているだろうか。

 蔀山は旧深津村深津半島の西突端に位置する。上部の平らになった場所が居館跡である。室町時代には、眼下に穏やかな瀬戸の海が広がり、さぞ風光明媚なところであったろう。
 実際の目視では、深津半島がどこなのか、わかりにくいが、等高線のついた地図なら目測しやすい。もっとわかりやすいのが、明治時代の地図である。水田地帯は概ね江戸時代の干拓地であり、それ以前は海だった土地だ。国土地理院のサイトなら戦前の航空写真など気軽に閲覧できるので、お薦めである。
 現在、居館跡には神社が祀られている。境内には大樹が立ち並び、よく繁ったその葉陰越しには、家々の連なる町の風景が見えるばかりだ。海ははるか遠くに後退し、当時を想うには、かなりのイマジネーションが必要だろう。
 蔀山の居館は史跡指定ではあるが、謎も多く、その真偽は定かではない。義昭が備後の深津というところに五千石の知行を受けたという伝承もあるが、こちらも明確ではない。
 蔀山は、美女を住まわせた別邸で、義昭が通っていたという説もある。その時代、鞆の居館から通うには遠いような気もするが、現実世界から逃れ、心身共に休むことができた別荘ならば納得もいく。義昭伝説が謎であればあるほど、憶測や勝手気ままな空想も楽しいものだ。
 確かなことは、この地に伝説が生まれ、それを今の世まで語り継いできた人々がいるということだ。歴史を愛するということは、そういう人たちの思いまでも愛することではないだろうか。


備陽史探訪の会
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