第89回      

  
 天井川と砂防ダム

 6番砂留(基層部は安永2年(1773)、下層部は天保6年(1832)中層部は明治十五年(1882)上層部は1976年改造)、現在、川原は堂々公園として整備されている。

 大雨のたびに洪水をおこす暴れ川。治水技術の発達した江戸時代、人々は農地を守るため、堤防を築くようになる。しかし、暴れ川は大雨のたびに上流から多量の土砂を運ぶ。しだいに砂礫の堆積が進み、川床が高くなり、再び氾濫をする。人々はさらに堤防を高くする。それを繰り返すうち、周囲の地面より川床が高くなってしまう。これが天井川である。
 天井川が氾濫すると、水は行き場がないため、長時間引かず被害も大きい。現代なら、川床を浚うこともできるが、昔は、氾濫のたびに堤を高くすることしかできなかったろう。
 備後を流れる川のほとんどは天井川である。これらは江戸時代からの人と川との戦いの産物とも言えよう。
 堆積することで川が氾濫するなら、そもそも土砂が流れないようにしてしまえばよい、とばかりに砂防ダムも相当数作られてきた。特に広島県は土砂崩れのおきやすい土質のため、古くから大きな課題であったはずだ。
 人々の生活のためとはいえ、豊かな自然を満喫しながらの山歩き中、突然無粋なコンクリートの砂防ダムが出現して、興ざめしたこともたびたびだ。
 しかし、備後には美しい砂防ダムが存在している。
 堂々川の砂留

2番砂留(江戸時代後期~明治時代)

 福山市神辺町を流れる堂々川。備後国分寺の傍らから川沿いの道を上っていくと、国の史跡でもある江戸時代後期に造られた石積みの砂留を目にすることができる。
 下流の一番砂留から六番砂留まである。大型の花崗岩を用いて空石積(からいしづみ)、布積(ぬのづみ)で築いた一番砂留。西袖部の壁体を乱積(らんづみ)、隅部を算木積(さんぎづみ)とし、その東側は谷積(たにづみ)壁体で水叩(みずたたき)の機能を持つ二番砂留。ほぼ六分の勾配で階段状に積まれ、緩やかなアーチ平面で地山に取り付き、外力の一部を端部まで伝える構造の三番砂留。それぞれ場所と地形を読んで造られており、ひとつとして同じものがない。
 そして、一番上流にある六番砂留が一番大きく立派だ。高さは13.3メートルもあり、四階建ての高さに相当する。と言っても明治時代に増築工事が行われているので、当時のままの姿ではない。江戸時代には6.2メートルほどの高さだったと推定される。しかし、それでも藩政時代に築かれた堂々川筋の砂留の内最大規模である。現在は堂々公園が整備され、地域のランドマークとして親しまれている。
 江戸時代には周辺に40以上の砂留が造られ、そのほとんどが現存しているという。堂々川の流域では16の砂留が残っているそうだ。
 江戸時代に築かれ、大正、明治と増築工事を行い、受け継がれてきた石積みの砂防ダム。川の風景に溶け込んだその人造物は、どこか懐かしく目に優しい。現代のコンクリート製ダムは機能的に勝っているのかもしれないが、百年先、二百年先の子孫の目にはどう映るだろうか。


備陽史探訪の会
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