第86回      備後の農民一揆(11)

  
 旧山陽道を歩く

管轄境界標。ここがかつての国境であった。

 昨今、旧山陽道(西国街道)を歩く人は多い。歩く会や歴史の会など団体の場合もあれば、個人で歩く人もいるだろう。健康にも良いし、季節柄、昔の旅人の気分でのんびりと山陽道沿いの史跡を訪ねるのも一興である。
 旧山陽道の備後国の東端は神辺町上御領と井原市高屋町の境にある。かつてはここに「従是西福山領」という国境碑があったが、現在は大正八年に建てられた管轄境界標が建っている。碑は新しくなったが、まさしくその場所が、かつての備前国と備後国の国境である。
 今でこそ一本の道に過ぎないが、当時の旅人はどんな気持ちで越えていったことだろう。県境から神辺方面にまっすぐに伸びた道筋は大正時代に造られたもので、さすがに昔そのままの風景というわけにはいかないが、往時の旅人の気分は味わえるだろう。
 さて、天明6年(1786)12月16日、農民が蜂起し、戸手の天王河原や神辺徳田村に集結していた頃、別部隊が高屋街道を国境に向かって進んでいた。
 そしてこの場所に到着した一団は、国境に立札を立てたのである。
 隣藩を巻き込む立札

国境から見た高屋街道。この道を立札を掲げて行進してきたのだろうか。

 立札の内容は、備後福山領の百姓が強訴をしたので、備前岡山藩より、江戸にいる福山藩主阿部正倫に取りついでほしい。もし取り次ぎされないなら、大坂城代へ自分たちで越訴するので、領内を通してほしいという旨であった。
 それまでの一揆は、まず村役人を通して願いを藩に出し、それが拒否されると蜂起したのだが、天明の一揆は、いきなり蜂起したのである。しかも、福山藩が知る前に、隣の藩が福山領内の農民の蜂起を知るよう、機敏な行動を起こしている。
 備前岡山藩も安芸広島藩も自らの領内へ一揆が飛び火するのを恐れ、狼狽した。当然、岡山藩では立札の内容について藩主の居る江戸藩邸へ早馬を飛ばしただろう。
 その時分、江戸藩邸の阿部正倫の耳には領内の一揆勃発の知らせは未だ届いてはいなかった。他藩の方が先に知ったというのは大失態である。しかも、越訴は幕法で厳禁とされており、幕閣内に知られては大変である。幕府の要職についていた正倫は越訴の件について握りつぶしかなかった。そしてそれまでの農民を抑え込む態度を一変させ、農民たちの要求をほぼ飲んだ。
 このように、戦略と統率力に秀でた天明の一揆だが、後世に残る大成功を納めるには、年の明けた1月の第二次蜂起を待たなくてはならない。
 いつの時代にも為政者に虐げられるのは庶民である。この天明の一揆のあり方は、今を生きる我々に大きな示唆を与えてくれる。興味を持たれた方には、関連書物を一読されることをおすすめしたい。(参考文献:『備後天明一揆』徳田太郎著(芦田川文庫))


備陽史探訪の会
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