第84回      

  
 銅栄山光明寺

銅栄山光明寺山門

 第32回で、新市町藤尾の父尾銀山について取り上げた。その回で、戦国時代には全国各地で各武将がこぞって鉱山開発をしたこと、有名な金山や銀山だけでなく地元の金山(かなやま)跡にも目を向けてはどうか、と書いた。
 同じく新市町常にある光明寺の周辺の山には、多くの坑道跡が残っていることを知り、訪ねてみたことがある。
 銅栄山光明寺は、永享2年(1440)に開基された寺であるが、当初の山号は葦浦山だった。『西備名区』によると、「その昔、この地に金山ありて繁栄なりし。今はたえてないが、金砿のあと多し。故に改めて銅栄山と号すと云う」とある。つまり、鉱山で栄えたので山号を銅栄山に変えたということだ。
 新市七曲西城線を4キロほど北上した地点で神谷川を渡り、そのまま車を走らせる。小さな川沿いの道をしばらく行くと、光明寺が見えてくる。石州瓦の赤い屋根が特徴的だ。参道の石段を上れば、立派な鐘楼門が迎えてくれる。
 山号を改めたのがいつ頃のことなのか不明だが、光明寺の規模を見る限り、往時は相当な繁栄ぶりではなかったろうか。
 今も残る坑道跡

光明寺の向かいの山中に口を開く坑道跡。(現在は立ち入れないようなっている)

 最初訪れた時は、寺の周辺を散策したのみで、肝心の坑道跡を見つけることはできなかった。その後、凝りもせず、伝手もないまま再び訪れてみた。幸い、地元の猟師の方にお遇いすることができ、案内を乞うた。
 山の中には、多くの坑道が今も口を空けているという。麓に一番近い場所にある坑道跡を目指し、50メートルほど山中を登ることとなった。といっても道があるわけではない。獣道を迷いもなく進まれる後を、藪漕ぎしながら、ひたすらついて行く。案内がなければ、進むことはおろか帰り道さえわからなくなりそうだ。
 ほどなくして、その場所へ到着した。草が覆いかぶさり、見えにくいが、山肌に黒々とした穴が開いている。近づいてみると大人が中腰で進めるほどの広さがある横穴がずっと奥まで続いていた。さすがに恐くて、中に入ることができなかったが、案内してくださった方は、子供の頃、坑道跡に入って遊んだことがあるそうだ。昔の山は、もっと整備されており、坑道跡まで簡単に登れたという。今では、通いなれた地元の人でなければ、山に踏み入ることもかなわない。今も、周囲の山に多く残るという坑道跡。父尾銀山と同じく、やがては通うこともできなくなるのだろうか。
 光明寺の門の脇にある小さな墓石は、山中にあったものを移設したと聞いた。おそらく坑夫の墓であったろう。元禄と読み取れたが、いくつかの時期に分けて開発された鉱山なのだろうか。常の銅山に関する資料は少ない。今後の調査に期待したい。 


備陽史探訪の会
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