第83回      備後の農民一揆 (10)

  
 もうひとつの一揆の舞台

徳右ヱ門の墓

 蜂起した農民たちが戸手の品治郡の天王河原に集結し、願いの筋を申し出よという藩の役人に、みなが集まってから申し出ると言い立てた、と前回の「備後の農民一揆9」で書いた。さて、もうひとつの一揆の舞台、安那郡においても同じようなことが起こっていた。
 安那郡各村で蜂起した農民たちは、鐘を撞き、鬨の声をあげ、庄屋宅を打ち壊しながら、進んでいく。彼らもまた願いの筋は他の者たちと合流してから述べると言い張った。
 目指す場所は徳田村庄屋徳永徳右ヱ門宅である。多くの庄屋は打ち壊しの対象であったが、農民に慕われたいくつかの庄屋宅は襲われることはなかった。特に徳右ヱ門宅は、一揆の総司令部だったと目されている。
 12月22日、藩の在方目付たちが250余りの正規軍を率いて徳田村へ赴いた時、徳右ヱ門宅周辺は、集結した農民たちで足を踏み入れる場所もなかったという。
 この時、農民勢は、要求書は庄屋徳右ヱ門の手を通じて提出すること、入牢された農民26人を即時放免することを要求し、受け入れられた。そして、各村から提出された約三十カ条の要求書は、江戸の藩主阿部正倫に取り次ぐことが約束された。
 宝泉寺に眠る徳右ヱ門

参道を横切る踏切

 その後、農民たちは解散し帰村したが、各地での戦闘体制は維持したままであった。この後、3カ月もに及ぶ長い闘争が続くわけであるが、その間ひとりの落後者もなく、裏切りもなかった一揆というのは、全国的に希有なことであるという。
 指導部の戦略はあらかじめ決めた陣地で農民たちが鳴り物や鬨の声をあげて騒ぎ、藩兵をおびきだし、農民たちは教えられた通りに行動をする。彼らは、武器を持った藩当局に一歩も怯まず、粛々として要求書を手渡すことに成功している。安那郡、品治郡、沼隈郡、福山藩領内の各村々で繰り広げられたその徹底して統制のとれた闘争ぶりは驚嘆に値する。 
 さて、天明の一揆で重要な舞台となった徳右ヱ門宅であるが、今はもう当時の面影を見ることはできない。神辺町湯田村駅の西側の宝泉寺というお寺に、徳右ヱ門の墓が残されている。せめてもの思いで、偉大な足跡を残した人物の墓参りへおもむいた。
 宝泉寺の敷地内を線路が通っているせいか、参道を福塩線が貫いている。踏切もなく参道の中ほどに線路が横たわっているだけで、そのなんとも言えない大らかさに少々驚いた。しかし、柵がなく境内と線路の境が曖昧なその風景に、徳右ヱ門の生き様が重なってみえた。
 民衆の声を為政者に届かなくしてしまう柵など、本来あるべきではない。これを打ち壊し、民衆の要求を通した徳右ヱ門は、今、宝泉寺境内に静かに眠っている。現代に生きていたら、どのような活躍をしてくれるだろうか。


備陽史探訪の会
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