第80回      備後の農民一揆(9)

  
 古墳と一揆の関係

向田第1号古墳を遠望する

 福山市新市町はあちこちに古墳が点在する土地柄であるが、とくに常地区には多い。その中の、県道金丸府中線沿いにある向田第1号古墳を訪れてみた。
 一昨年の冬、「一揆の時、百姓たちは、この向田第1号古墳に鍬や鋤を前もって隠し、決起の日、ここから持ち出して行ったという言い伝えがあるそうです」と聞いたので、一度行ってみたいと思っていた。「夏になると草が茫々に生えて近づくことができないが、今の季節なら良いでしょう」そう教えてもらったが、行く機会に恵まれず、初夏になってしまった。
 何度も迷って、やっと見つけた古墳の周囲は、案の定、草が生い茂っており、迂闊に近寄れない。然るべく服装もしておらず、遠目に見るに終わった。
 古墳は横穴式石室がほぼ南に開口しており、高さ、幅とも1m。下草に覆われよくわからなかったが、想像していたより開口部は低く感じた。しかし、遠い時代の朧だった一揆のイメージが、鮮明に胸に迫ってきたのも事実だ。
 天明の一揆が後世に語り継がれる事になったひとつに、その組織力の強さがある。指導力に長けたリーダーがいたことも大きな要因であろうが、結束した何万という農民の力がどれほど強大であったことか。
 立ち上がった農民たち

開口部。ここに鋤や鍬を隠しておいたのか。古代から近世、現代へ、ひとつの古墳を媒介にして、歴史はつながっていく。

 事前に不穏な空気を感じて、藩側も高札を立てるなどの挑発をするが、農民側は誰ひとりとしてそれに乗ることはなかったという。そして、12月16日未明、一斉に蜂起。
 先鋒を切った戸手の者たちに遅れを取らぬよう、常の農民たちも、手近な古墳に隠しておいた鍬や鋤を引っ張り出し、連れ立って天王河原へ向ったのだろうか。鍬や鋤を手にした200年前の農民たちと、それよりさらに1000年以上遡る歴史の交差。それを現代の古墳を通して眺めることで、その土地に連綿と続く時の流れが実感できた。それと同時に、今を生きる重さがずしりと胸に響いた。
 向田第1号古墳はなかなか見つけにくい場所であるが、当時の農民たちは同じように手近な小さな古墳に、蜂起の時に手にする得物を隠しておいたと想像するのは難くない。あちこちに散らばる小さな古墳が、その時代時代に人々とどういうかかわりを持ってきたのか想像するのも楽しそうである。
 さて、藩側が、願いの筋があれば伝えるから申し出るように言っても、農民たちは声高に悪口を言い立て埒があかない。天王河原へ集結した農民たちは、みなが揃ったところで願いの筋を申し出ると言って、神谷川を封鎖してしまう。藩兵が来ると、あらかじめ用意してあった「つぶて(小石)」を投げつけ撃退したそうだ。翌日以降も五人十人と連れ立って農民たちはやってきたという。
 そして18日、芦田郡と品治郡で起こった一揆は、燎原の火のごとく備後地方を覆っていく。


備陽史探訪の会
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