第73回      備後の農民一揆(7)

  
 一揆を告げる鐘の音

正面から見た鐘楼門。撞木が見える。

 天明6年(1786)12月16日の未明、品治郡蛇円山(福山市駅家町)の山頂から、烽火があがった。それを合図に次々と領内の社寺の鐘が打ち鳴らされた。農民たちの一斉蜂起、天明の一揆の幕開けである。
 その一番鐘を鳴らしたのが戸手の天王社だとも云われている。なるほど、蜂起の集合場所は天王河原であり、そこからは夜空を衝くような蛇円山の烽火がよく見えたことであろう。
 さて、現在の天王社(素戔嗚神社)に鐘はない。もっとも、どの神社でも鐘を見たことがある人の方が少ないだろう。
 かつては、本地垂迹説による神仏習合の習わしで、全国の有力神社には本地堂や梵鐘があった。しかし、明治の神仏分離令により、神社から寺の要素が徹底的に破壊され、今では、その名残を留める神社はほとんどない。
 貴重な例として、近辺では、府中市南宮神社に、17世紀建立の鐘楼が残されている。また、素戔嗚神社には、鐘はないものの、延享5年(1748)再建の本地堂がある。天満宮の社殿として使うことで破却を免れたのだ。本尊の本地仏と鐘は、それぞれ他所の寺に移された。鐘が移築されたのは、神辺町の「護国寺」である。
 歴史を語る鐘楼門

本堂側から見た鐘楼門。豪華な彫り物が目をひく。

 一揆を告げた鐘の記憶でも辿れるかと「護国寺」を訪ねてみた。
 道上小学校の東の道をゆるゆると上っていくと、その先に立派な楼門が見えてくる。それこそが、天王社から移築された鐘楼門だ。
 お目当ての鐘楼がまさか門だったとは思いがけず、しばし門の前で立ちすくんでしまった。堂々たる鐘楼門を前に、農民たちが打ち鳴らしたというイメージは湧かない。
 もっとも、この鐘楼門は江戸末期頃に再建されたようで、梵鐘も戦時中に供出され、昭和25年の鋳造である。
 一揆の始まりを知らせた鐘はいかなるものだったのか。
 素戔嗚神社には当時の記録は残されておらず、移築前の鐘楼門がどこにあったのかも定かではない。
 しかし、上層部の重厚な組み物や精緻な彫り物を眺めていると、そこに込められた古の人々の深い祈りを通して、鐘楼門が長い歴史を語りかけてくるような気がする。天王社の鐘も、その鐘を打ち鳴らした農民たちも、歴史の中に確かに存在したのだ。
 蜂起の合図は、蛇円山の他に、安那郡竹田村(神辺町竹田)権現山、沼隈郡藤江山(福山市藤江町)山頂からもあがったと云われている。その日の未明、備後国中の鐘が領内に響き渡ったことだろう。
 この一斉蜂起は、重要な意味を持っている。なぜなら、それ以前に、蜂起の情報が漏れることなく、藩側の挑発にも乗らず、何万もの農民がじっと息をひそめてこの時を待っていたのだ。驚くべき団結力である。


備陽史探訪の会
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