第70回      信岡平六と戸手用水―1―

  
 郷土の誉、信岡祐義

「石塔さん」と崇敬される信岡平六の顕彰碑

 福山市新市町戸手地区に、地元の人から「石塔さん」と親しみ敬われている石碑がある。これは、信岡祐義(通称・平六)の頌徳碑である。
 平六は、江戸時代の戸手村の庄屋であり、文化元年に、福府義倉の設立に関わった人物だが、地元ではむしろ、戸手用水を開削した人物として有名であろう。
 平六は宝暦6年(1756)戸手村に生まれる。宝暦の一揆のあった3年後で、飢饉に見舞われた年でもあった。そして明和6年(1769)15歳で病死した父の跡を継ぎ、戸手村の庄屋となるが、翌年の明和の一揆や、後の天明の一揆で打ち壊しにあう。これらの体験が、義倉設立に彼が尽力する一因であると云われるが、これはまた別の機会に触れることにする。
 寛政2年(1790)福山藩ご用達となるのだが、当時は、米の生産量の確保が農村の宿命であり、特に灌漑には大きな努力が払われた。平六も天変地異が続き幾度も飢饉に見舞われた時代を過ごしてきた庄屋として、稲作の生命線ともいえる水の確保に奔走することとなる。
 それ以前にも戸手村には用水路があったが、村の稲田を充分潤せるほどの水量はなく、水争いが絶えなかったと云う。
 私財を投じた庄屋の情熱

スサノオ神社(天王さん)の北側を流れる戸手用水

 平六は寛政4年には用水普請願いを幕府に出し、同12年に戸手村用水の開削に着手した。
 用水路の延長距離1414間(約2.57km)作業人員約2万人、日当2匁2分の時代に総費用66貫289匁。この大事業を、平六は私財を投じて為したのである。実に39年の歳月が費やされた。完成したのは、平六が没してから6年後のことである。
 この通水により恩恵を請ける田は35町歩(約35ヘクタール)増加し、天保10年の旱魃には、他郷の水は涸れてしまったが、戸手村の水源は滔々と湧き出て、田を潤したという。
 戸手村の人たちの安堵と感謝は、どれほどのものだったろうか。村人たちは平七の功を讚えるために、案を出しあった。ひとつは、農民総出で菩提寺に参詣し、当日は有徳を偲び休日とする。ひとつは、代表者が当家の墓前に参詣し、有徳を偲び休日とする。これらを信岡家に願い出るが辞退され、また仏前の参詣では後世に永く伝わらないのではないかということになった。
 そこで、村人は、天保10年(1839)7回忌にあたって、なめら谷より運んだ石材で頌徳碑を建立した。明治37年に現在の場所に柵を巡らせ、昭和50年には石塔大修復工事。そして、今年の9月7日には、180年忌法要が営まれるなど、今も平六の遺徳は戸手の地に脈々と伝えられている。
 後世に残そうとする先人たちの意志にも、また、それを連綿と受け継ぐ地域の強さにも目を見張るものがある。
      (その2に続く)


備陽史探訪の会
バックナンバー HOME クラブTOPへ ▲PageTop