第64回      備後の農民一揆(5)

  
 歴史の町・神辺の廉塾

正門から見た廉塾

 首謀者3名が打首獄門となり、農民から犠牲者が出た明和の一揆。それから10年ほど経った天明2年(1782)から7年間、またしても災害は続き、全国的に未曾有の大飢饉が訪れる。その果てに、全国的に有名になった備後の天明の一揆がおこるのだが、この回では菅茶山について触れておく。
 菅茶山(1748~1827)は江戸後期の備後が誇る儒学者であり、「当世随一の詩人」と評される詩歌人でもある。
 数年前、茶山の屏風がインターネット上で競売にかけられ、あわや市外へ流出かと心配されたが、福山在住の人が落札した。
 菅茶山が天明の一揆に関与したという史実は今のところない。しかし、優れた指導部が存在していたということ、その第一人者にあげられる徳田村の徳永徳右ヱ門の家と、茶山居宅はすぐ近くにあり、同時期を過ごした二人に交友があったと推されて当然である。
 茶山は酒造業を営む農家の長男として神辺川北村に生まれたが、賭博や飲酒で荒れていた当時の宿場町を学問を広めることでよくしようと考え、19才で京へ上り、朱子学を学んだ。そして、天明元年、神辺に私塾『黄葉夕陽村舎』(こうようせきようそんしゃ)を開く。
 文化は教育が導くもの

方円の手水鉢

 天明6年(1786)には、福山藩校講道館教授へと請われるのだが、茶山はこれを断っている。まさに、天明の一揆がおこった年である。
 その10年後には、福山藩の郷校となり、『廉塾』と呼ばれるようになった。現在、塾跡は国の特別史跡となっている。
 『廉塾』は3室20畳の講堂、3棟の寮舎、菜園、養魚池、茶山居宅からなり、全国から武士、町人、農民から集まり、常時20人ほどの塾生が論語や漢詩を学んでいたという。
 今も語り継がれている講堂前にある手水鉢。御影石が丸と四角に彫られた「方円の手水鉢」と呼ばれているもので、水は入れ物によってどんなにでも形が変わる、人も教育によってよくも悪くもなると教育の大切さを表したものといわれている。
 菅茶山は優れた漢詩人でもあり、困窮時に備えて米麦を蓄えておく朱子社倉法を実践した社会事業家でもある。多くの著名人を輩出した『廉塾』には、また各地から文人が立ち寄り、神辺に文化の華を咲かせた。
 茶山によって高い教育と文化がもたらされた神辺で、備後天明の一揆の指導者たちが活躍したのは決して偶然ではあるまい。
 当時塾生たちで賑わった敷地は、往時の風情を留めながらも、今はひっそりと静まりかえっている。しかし、その文化意識の高さは、今なおこの地に受け継がれていると感じる。現在、神辺町は合併して福山市となっているが、その独自の文化を守りついでいってほしいと願う。


備陽史探訪の会
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