第62回    水野勝成の残したもの  (38)

  
 富田久三郎と備後絣

機械が並ぶしんいち歴史博物館内部

 かつて福山市新市町大佐山運動公園にあった富田久三郎の胸像をご存知だろうか。(2012年の移設ニュースで地域外の人でも知っている方は多いかもしれない)
 富田久三郎(1828~1911)は、備後絣を考案した人物である。彼の名を知らずとも、久留米絣、伊予絣と並ぶ、日本三大絣のひとつとして備後絣を挙げる人も多いのではないだろうか。
 久三郎の父は医者であったが、木綿は凶作に強く、その現金収入で貧困を救うことができると考えた彼は、織物の道へと入る。そして、試行錯誤を末、「文久絣」を完成。明治元年(1868)大阪の伊藤忠に「備後絣」として納入され、全国的に販路を広げる。以後、一大産業ブランドとして、飛躍的な発展を遂げ、1960年代には、全国絣生産量の70%を占めるに成長した。
 その後、生活様式の変化や化学繊維の普及で衰退の一途をたどるが、素朴であたたかみのある風合いは、根強い人気もあり、近年、新ブランドの発信や、「現代の備後絣」の創出を目指すなど、新しい絣の道を開拓していく動きもあるようだ。
 ところで、絣の材料となる綿花であるが、この栽培を備後地方に育んだのが、水野勝成その人であった。
 綿織物産業は郷土の誇り

富田久三郎翁胸像(現在はしんいち歴史民俗博物館に移設)

 このシリーズで何度も触れたように、旧福山の町はほとんどが干拓地である。江戸時代、干拓したばかりの塩の多い土地に稲作はできない。そこで、勝成は綿作を奨励した。
 綿作は少々塩分はあっても排水が良い砂壌土がよく、日照時間の多い瀬戸内地方の気候にも適している。海沿いの干拓地なら、肥料として最適な干鰯も手に入れやすい。その上、綿作は米作よりはるかに粗収入がよかった。 
 深津沼田、市村沼田、引野沼田、吉田村、大門村、野々浜村、津之之下村、手城村などで、盛んに綿作が行われ、寛文から元禄にかけては、年間約四万俵の繰綿が、領外に運ばれたという。
 江戸初期に奨励された綿作は、福山地方に浸透し、江戸後期には、芦品地域の8割が木綿織りに従事するようになっていく。そして久三郎の「備後絣」の開発で、備後の代表的な産業へと発展していく。
 1990年より、備後絣の復元・保存・伝承・活用を目的に「しんいち体験学習会」がスタートした。2008年1月、新しくなった「福山市しんいち歴史民俗博物館」には、染色実演室や、機実演室などの施設も備わっており、備後絣の歴史や技術を伝承し、保存・活用する活動を積極的に行っている。
 歴史の中で一世を風靡した備後絣、その伝統技術を絶やさぬ限り、いつの日か再び脚光を浴びる日もあるかもしれない。何より先人の知恵と技術力、そして豊かな感性に学ぶことは多い。
 備後絣を地域の伝統産業として、愛し、後世につないでいこうとする人々の努力に敬意を表したい。


備陽史探訪の会
バックナンバー HOME クラブTOPへ ▲PageTop