第61回        備後の農民一揆(4)

  
 明和の一揆

北川六右衛門の墓(神辺町下竹田)

 初めて打首の犠牲者が出た宝暦の一揆から16年後の明和6年(1769)の秋、福山地方はまたしても凶作に見舞われた。その困窮ぶりは江戸にも知らされたという。当時の藩主は、8月に正右(まさすけ)の跡を継いだばかりの四代正倫(まさとも)であった。
 当時は、国元藩士と江戸詰藩士の数がほぼ同数である上に、歴代藩主が幕閣であり多大な入用が嵩み、藩の財政は極度に逼迫していた。加えて家督相続による臨時出費など、凶作にもかかわらず、重い年貢が農民から取り立てられた。
 そして翌年も凶作は続いた。5月の長雨、芦田川の洪水、氾濫、雨が止んだと思ったら今度は3カ月もの日照り、後手に回る藩の施策。作物の植付けもできないまま、餓死者が出る飢饉の中、払える年貢などあろうはずはない。
 8月になると、領内各村で農民たちの会合がもたれるようになった。そして、安那郡下竹田村を中心に農民が蜂起。またたく間に各郡に広がり、芦田郡や沼隈郡の農民まで立ち上がり、町屋を襲い、庄屋宅を打ち壊していった。福山藩領内で打ち壊された庄屋宅は30軒にも及んだといわれる。
 一筋の遺産ここにあり

墓所にある六右衛門の功績を刻んだ石碑

 農民の十九カ条の要求に対して、藩は、借銀の15年賦返済、綿運上銀の引き下げなど、経済的なものはある程度認めたが、藩の権威にかかわる政治的要求はいっさい認めず、また地主―農民間の貸借関係についても関知しなかった。
 一揆から2年後の安永元年(1772)、襲封後、初めて福山にやって来た正倫は、家中の綱紀粛正の一方で、翌年、一揆の処分を断行した。
 一揆の首謀者とされた三人の農民、備後国安那郡下竹田字轟の北川六右衛門、下竹田村の庄屋定藤仙助、下御領村の渡部好右衛門らは打首、獄門の極刑となった。
 今も神辺町に仙助と六右衛門の墓、国分寺に好右衛門の顕彰碑が残されている。
 追放を免れた北川一族は、その後も供養を怠らず、六右衛門、夫婦墓を守ると共に、その功績を今なお言い伝え、石碑に残している。
 それによると、一揆後入牢された北川六右衛門の息子は、父に三年もの間、毎日三度の弁当を欠かさず運んだ。藩府はその孝心に賞でて、六右衛門の一時帰国を許し暗に他国へ逃れさせようとした。近隣の人々のすすめにも、六右衛門は潔しとせず再び入牢したという。
 石碑の結びに「考古研究の先生方が究めてくださった我家の歴史は、細い一筋の流れであったとしても、それはかけがえのない遺産である」とあった。六右衛門の輝かしい功績はもちろんだが、地域のために生きた名もない人々の歴史すべてがかけがえのない遺産なのだ。無数の人々の汗と涙がその土地を守り、その幾筋もの細い流れが歴史がつくってきた。今を生きる私たちが、それを疎かにしてはならない。


備陽史探訪の会
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