第59回         杉原盛重(7)

  
 古式豊かな赤坂八幡神社

赤坂八幡神社本殿

 赤坂駅より西へ山陽道を10分ほど歩くと、左手に天保2年(1831)に建てられた立派な常夜灯が現れる。その五叉路を北方向に行くと、前方に赤坂八幡神社の鳥居がある。
 すっきりと開けた境内には重厚さはさほど感じられないが、承和年間(834~48)の創祀、建久2年(1191)の再建と伝えられ、かなりの由緒を持つ神社である。手入れも行き届いており、地元の人たちの氏神様への愛着と崇敬が充分に感じられる。
 現在の本殿の建立は不詳であるが、福山市付近には例の少ない外陣付きの流造(ながれづくり)であり、様式上十七世紀後期のものと考えられている。『広島県の神社建築』にも取り上げられているほど文化財的にも価値があり、「細部が古式かつ優美なものであって、この地方の代表的な本殿のひとつ」とされている
 様式は盛重が中興したとされる山手八幡神社と酷似しており、赤坂八幡神社にも天正8年(1580)8月に杉原盛重が大檀那となって神殿を再建したという棟札が残っている。その翌年の12月、盛重は逝去している。
 新たなる郷土の英雄として

赤坂八幡神社境内
 伯耆地方が平定され一時の平穏が訪れたのも束の間、永禄11年(1568)杉原盛重は、吉川元春に従軍して九州へと出陣した。しかし、山中鹿介に攻め込まれた富田城を救援するために、翌々年には出雲に戻ってくる。
 一度は鎮まった毛利対尼子の熾烈な戦いが、天正6年(1578)に尼子が滅亡するまで、再び繰り広げられることになる。その前線にはいつも盛重の姿があった。盛重と鹿介、両雄の死闘振りは、多く軍記物で語られているので、一読してみるのもおもしろいだろう。
 尼子が滅亡した頃から、伯耆の東西を支えてきた杉原氏と南条氏の対立が激化してくる。盛重は吉川元春の先鋒として、天正7年と8年、南条方の羽衣石城へと攻め込むのであるが、そのさなか、赤坂八幡神社を再建している。戦いが小康状態を保っている間のことかもしれないが、折りしも物故する前年、盛重の胸に去来するものは何だったのだろうか。故郷への思慕か、今なお銀山城主たる誇りか。
 盛重死後、二人の息子、元盛、景盛は仲違いし、直系は断絶したとされる。山手町に残る系図には、銀山城主が杉原盛重―元盛―盛光―盛政とあり、盛政は山手村の住人になったとある。盛重の系図は種々残されており、真偽のほどはわからない。未だ謎の多い武将でもある。
 吉川元春が「両手を失し如し」とその死を悼んだと伝えられる猛将・杉原盛重。戦国の智将と謳われ、「伯州の神辺殿」と畏敬されたこの人物に興味を持たれた方は、ぜひ関係書物をひもといてほしいと思う。ここでは紹介しきれなかった郷土のあちこちにその足跡を見つけることができるだろう。
(杉原盛重-完-)


備陽史探訪の会
バックナンバー HOME クラブTOPへ ▲PageTop