第58回       水野勝成の残したもの(37)

  
 沢瀉のある家

『ばん翠社』の看板

 知人から沢瀉紋のついた古い家を見つけたと教えてもらった。沢瀉は水野家が使用していた家紋である。場所は木之庄、誠之館高校へ登る坂の入口あたりである。水野時代の遺物であろうかと、さっそく訪れてみた。
 なるほど、住宅街の中に、そこだけ本瓦屋根が目立っていた。しかし、建物の傷みは激しく、人の住んでる気配はない。
 大屋根は平たい和型瓦だが、鬼瓦には立沢瀉がついている。そして一階部分と玄関先の本瓦部分には、多くの立沢瀉紋が見られた。それらの瓦は半ば崩れかけており、水野時代からの長い歳月を彷彿とさせた。
 玄関先に回ってみると、『ばん翠社』(ばんは草かんむりに晩)の額が掲げられていた。室内の貼紙や軒先の大きなげた箱を見ると、何かの集会所に使用されていたように思える。
 『晩翠舎』は阿部家の財務処理をするための施設であり、現在の福山駅裏のファミリーマート付近にあった。『福山城誌』によると、明治時代に福山城北御門は桑原伊十郎氏の所有となり、取り壊した古材を利用して二階建ての座敷が建てられた。後に阿部家が買取ったと記されている。この建物を晩翠舎の一部として利用していたが、昭和初年に木之庄の地に移築したという説があるが、それを晩翠舎として利用していたわけではないようだ。
 城下町・福山のおもしろさ

 訪れた日から一週間後、その家は老朽化のため取り壊されるのだと知った。慌てて、再訪してみると、すでに玄関部分は取り壊されていた。『ばん翠社』の看板の謎も、どういう使われ方をしていたのかもわからずじまいである。
 阿部家文書の『晩翠舎』の図面には、それらしい建物は見当たらないそうで、この木之庄の建物がどういう履歴を持つものなのか今後の考証が待たれるところだ。
 しかし、玄関の向拝部分は福山城の北御門の遺構であった可能性は高く、沢瀉紋が付いてた瓦は、残らず福山城博物館へ寄贈された。北御門の遺構であることが、実証されれば、また新たに歴史の闇に光があたることになっていただろう。老朽化による取り壊しは真に残念なことである。
 それでも、どういういわくつきの建物か知らずに取り壊しをしていた業者の方の「福山のお殿様といやあ、水野勝成じゃろう」ということばに少し救われたような気がした。
 昨今は日本史ミステリーブームで、テレビでも多くの関連番組をみかける。日本史を見るのに、そういう視点もあるのかと感心する事がある。
 城下町であった福山の町、私たちの身近にも謎は多い。老朽化、取り壊し、見過ごせば、ただの時の流れや新旧交替としか感じられないが、そこに大きな発見や謎がひそんでいたりする。そういうおもしろさを見逃さない目を養いたいものである。それが郷土を知ることにも通じる。
取り壊される前の晩翠舎の建物



備陽史探訪の会
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