第56回         杉原盛重(6)

  
 名刹・三宝寺

山手町三宝寺山門

 中世の山陽道を通り、山手八幡神社からさらに南東に歩を進めると三宝寺門前の道にぶつかる。
 この地は、山手銀山城の城下町として、現在の城西中学校辺りを中心に大層栄えていたそうである。門前一帯には当時の名残を遺す「小路」が今も東西に走っている。
 三宝寺は、延暦24年(805)興福寺の高僧が佐倉山に等傳寺を建立したのが始まりである。南都六宗のひとつとして法相宗は一世を風靡するが時代と共に廃れ、等傳寺もそれに連れ荒れ地となっていった。
 それを憂えた法燈国師が弘安4年(1281)に今の地に寺を建立し、釈迦牟尼佛を本尊に大鏡山三宝寺と名付けた。七堂伽藍のたいへん立派な寺であったという。しかし220年ほど後、長雨で背後の山が崩れ、伽藍は壊滅してしまう。
 大永2年(1522)に、杉原匡信が大檀那となり、三宝寺を曹洞宗に改め中興した。また、寺の前後の山林田畑十数丁を寄付、匡信・理興・盛重と続く歴代銀山城主の崇敬を受け、後の水野氏にも厚く保護され、長く隆盛することとなる。
 寺の西側に「旗谷」という地があるが、銀山城主杉原氏の軍勢は、ここに勢揃いして出陣したと伝えられている。

 盛重と曹洞宗

境内にある杉原一族の墓石

 杉原盛重は永禄7年(1564)に尾高泉山城主となると、日野郡内の尼子勢力の掃討に励み、江美城を陥落させた。これにより毛利は伯耆を制覇、再び尼子の本拠地富田城の攻撃を本格化させた。
 そして永禄9年、ついに富田城が落ち、尼子氏の命運はつきた。前回書いたように、ここから山中鹿介の活躍が始まり、尼子滅亡はさらに後の話となるが、とにかく毛利元就の五年にわたる山陰平定の悲願が達成されたわけである。翌10年に毛利軍は安芸に帰陣した。
 その後の山陰を任せられたのが杉原盛重だ。長きにわたり尼子が制していた山陰を掌握するため、盛重はまず倉吉の定光寺を訪ねた。
 定光寺は因幡、伯耆をはじめ出雲、安芸に直末32カ寺、末寺139カ寺を持つ曹洞宗の本山である。かつて尼子経久が修行した寺でもあり、尼子氏とのつながりは深い。盛重はあえて定光寺に乗り込み、各寺院の手当てを申し出た。尼子と親密な曹洞宗寺院を毛利方に引き入れ、かつその広範な組織力と情報網を手に入れるためであった。とはいえ、杉原氏の平時の居館は三宝寺付近に存在したと考えられており、盛重も幼少の頃より三宝寺で遊んでいたに違いない。曹洞宗に帰依していた盛重にとっては、その本山である定光寺への参詣は、自然の成り行きであったろう。
 その後、盛重は山陰で病死したが、杉原氏の菩提寺である三宝寺には歴代城主の位牌と杉原一族の墓石がある。観光化された寺ではないが、今日まで多くの歴史家たちが訪れている。



左に盛重、右に杉原豊後守と考えられる理興の戒名が刻まれた位牌。


備陽史探訪の会
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