第53回       杉原盛重(5)

  
 重盛の宿敵、中山鹿介

鞆にある山中鹿介 (鹿之助) の首塚

 昨今、観光地としての賑わいをみせている福山市鞆の浦であるが、観光に訪れた人はたいがい、寺町通りの道すがら、「山中鹿之助の首塚」を目にしていることだろう。
 実名は山中幸盛だが、通称の鹿介の方が一般的だ。(講談などで鹿之助とされたため、現在、山中鹿之介という誤った表記が多く見られる。鞆の首塚もその例である)
 山中鹿介は尼子方の武将で、数々の武勇伝を持つ猛将であるが、よく知られているのは、永禄9年(1566)に尼子義久が難攻不落の月山富田城を明け渡し、毛利に降(くだ)ってからのことである。
 鹿介が尼子の再興を誓い、三日月に「我に七難八苦を与え給え」と祈った逸話は有名である。
 捕えられても裏切られてもとにかく生き延びて、尼子再興軍を起こしたこと三度。三度目、天正6年(1578)上月城の戦いで捕らえられ、毛利方へ送られる途中、高梁川阿井の渡しで謀殺された。
 胴体は高梁市の勧泉寺に葬られ、首級は毛利輝元や足利義昭のいる鞆の浦へ送られ、首実験の後、この地に手厚く葬られたという。 
 首を洗ったとされる井戸は、首塚の裏手の妙蓮寺の塀の内にある。すぐ横にある静観寺は、当時輝元が本陣を敷いていた寺で、今でも毎月、首塚で供養をされているそうだ。
 盛重、尾高泉山城へ

潮待ちの港に繰り広げられた物語  鞆の浦の全景

 永禄7年(1564)の暮れ、杉原盛重は息子たちを神辺城に残し、尾高泉山城へと移った。この城は西伯耆において毛利の重要な拠点であり、前城主行松正盛が急死したため、急いで後任の武将を探さなくてはならなかった。この時、またしても吉川元春が、後任は杉原盛重をおいて他になしと、元就に推挙したのである。
 かくして、盛重は44歳にして、行松の未亡人と再婚し、尾高泉山城主となった。この後、盛重は二度と神辺城に戻ってくることはなく、備後での足跡はほとんど残ってはいない。
 盛重が泉山城主となった翌年、尼子方は泉山城へと攻めてくるようになるが、それが鹿介との出会いとなる。
 その後、何度も衝突を繰り返すうち、凛とした信念と不撓不屈の精神をもつ鹿介と、忠義に厚く武勇に優れた盛重は、次第に宿命の好敵手として相対するようになるのである。
 最後まで尼子再興のために命を賭けた鹿介が、宿敵毛利の地で手厚く葬られ、現在までその歴史を残しているのは奇異な感じがしないでもない。反対に、毛利のナンバー2とも言われながらここ備後においては、甚だ知られる事が少ない杉原盛重が、尼子の地で「伯耆の神辺殿」と慕われ、今でも地元の人に親しまれているのは、何か因縁めいたものを感じる。
 下克上の戦国時代に真摯に生きた二人の武将を、いつまでも郷土で語り継いでほしい。



備陽史探訪の会
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