第50回       杉原盛重(4)

  
 郷土に根付く八幡神社

山手八幡神社参道

 水野勝成同様、杉原盛重も信仰に厚く、福山八幡宮はじめあちこちの社寺再建、造営にその足跡を残している。そのひとつが、山手杉原氏の居城銀山城のふもとにある山手八幡神社だ。
 貞観元年(859)宇佐八幡宮より勧請。『水野記』によると、杉原盛重が中興し、社領15貫を寄進したと伝えられている。
 鳥居の前の道が中世の山陽道である。盛重も通った道であろうか。民家が軒を連ねる現代でも、当時の面影を感じることができる。
 鳥居をくぐり緑の深い参道を上っていくと、地元の人たちによって再建された随身門が迎えてくれる。そこを抜け石段を上ると、正面にはよく手入れされた拝殿、右手には秋に伝統芸能のはね踊りが奉納され賑わいをみせる広場が広がる。裏手にまわると、何百年の歳月何度も修復を重ねられてきた古式ゆかしい本殿が静かな佇まいをみせている。
 平成12年に随神門が再建された時の説明書きの末尾に次のような文章が表されている。
「随神門再建並びに周辺整備事業に寄せられた熱い思いが、行く末永く子々孫々にまで継承され、山手町に住んでよかったと心から思える、明るく住みよい町づくりの心の支えになることを衷心より念じて記します」
 飾り気こそないが、山手に生まれ育った盛重の祈りのようにも感じられる重みのあることばだと思う。山手八幡神社、郷土の誇りたるに不足はないであろう。
 盛重の異色の家臣団

山手八幡神社拝殿と本殿

 1558年に山手銀山城主から神辺城主となった杉原盛重は、ゆっくり腰を落ち着けることもなく一カ月後には出羽合戦に参戦することとなる。
 毛利元就は石見銀山を手に入れるため、一千騎と共に吉川元春を出羽へ侵攻させた。しかし、尼子方も石見銀山を死守すべく、五千騎の軍勢をもって、元春の本陣を襲う。4時間余りの戦闘に両軍疲労困憊した時、七百の兵を率いてかけつけ元春の窮地を救ったのが杉原盛重であった。
 翌月には盛重は日和城を攻撃、開城させ、元就の本隊と共に石見の拠点を奪い取る。
 勇猛果敢で戦上手と知られた盛重であるが、彼を支えた戦闘能力がかなり高かった言われている家臣団を忘れてはならない。
 神辺城主になる時、小早川隆景が盛重の家来には忍びや盗っ人など怪しげな身分の者がいると反対したが、実際その通りであった。その様子は『陰徳太平記』に書かれているが、盛重は、足軽以下の者は山賊や海賊など剛勇で腕力がある者を好んで召し使った。盗賊であった者たちは敵の陣地を夜襲し、あるいは放火し、敵の隙を窺って忍び込む事が得意であった。
 悪党たちを逸材として使いこなす手腕もさすがに智将の誉れ高い盛重の器あってこそであろう。歴史の中に学ぶ事は多い。



備陽史探訪の会
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