第49回       備後の農民一揆(3)

  
 二度目の一揆勃発

ひっそりとした戸手天王社境内

 新一揆が起こるたび、農民たちの集合場所となった天王川原は、戸手天王社の南西あたりという。現在は周辺の宅地化が進み、当時の地形を推し量る術もない。気勢をあげる農民たちがひしめきあったであろう天王社境内も、今はその歴史を深く押し抱き、静誼な結界を張っている。
 しかしつい三百年ほど前に、領民たちが自らの生活を守るために決起した場所であることは紛れもない事実であろう。
 境内に佇んで古に思いを馳せていると、鋤や鍬を担ぎ、茣蓙をはためかせた農民たちの開の声が聞こえてくるよう気がする。
 備後に初めて農民一揆が起こった享保2年から35年後、宝暦2(1752)年、福山に再び飢饉が訪れた。夏の旱魃、秋の長雨で収穫は全くなかった。これに対して藩は年貢の減免をすべきなのであるが、幕閣への道を歩み始めた福山藩主阿部正右は救済措置を講ずることはなかった。そればかりか、翌年2月には、郡中へ350貫、福山城下と鞆に100貫の御用銀を納めるように求めてきたのだ。
 草の根や木の皮まで食いつくされた領内で、どうしてそのような用立てができようか。
 2月28日に、北部の山に煙火があがり、領内の寺の早鐘が鳴り響き、それを合図に一斉に農民たちが蜂起した。享保の一揆で六千人が集まった天王川原に、二万人を超す農民たちが集まったという。
 宝暦の一揆で初めての犠牲者

広い境内に今はもう鐘の姿はない

 翌29日には府中や新市の庄屋宅などを襲いこれを打ち壊し、さらに翌日には神辺周辺、川北村、川南村へと侵攻し、翌朝下竹田の方へと進んだ。
 沼隈郡で蜂起した農民たちは、鞆、松永から、赤坂、神村などの庄屋をことごとく打ち壊しながら進んでいった。
 藩は一揆を鎮めるために、農民たちが要求した350貫の御用銀の撤回、藩札の正銀との引き替えに応じることとなった。
 農民の要求はひとまず呑まれたわけであるが、その年の12月には、品治郡下岩成の農民二名が頭取として捕らえられ、福山城下において打首、獄門にされた。水野、松平、阿部の130年余の間で、福山藩主に農民が打ち首にされたのは初めての事であった。
 備後国では、一揆のあった宝暦3年には、疫病が流行り、その後も5年に長雨で洪水、6年には飢饉、7年は大暴風雨、12年には大字魅と、宝暦年間を通じて災害が起こり、領内は飢饉にあえいだ。そして、1769年、明和の一揆で、さらに多くの農民たちが再び天王川原へ集まることになる。
 備後の一揆は遠い国のお伽話ではない。戦うために生きた武将の伝説でもない。今踏みしめている土地を先祖伝来守ってきた市井の庶民の歴史である。現代に生きる私たちも、自分たちの土地や暮らしを守るのは、「藩主」ではなく私たち自身であることを胆に銘じておきたいものである。



備陽史探訪の会
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