第48回       備後の四ツ堂(5)

  
 福山市加茂町「六才堂」


 神辺、駅家、加茂は今でも四ツ堂が多く残る地である。昭和59年の調査では加茂町14宇と報告されているが、そのすべてが今も残っていると思われる。しかもいずれの堂もよく管理されており、地域の人たちによって大切にされていることがうかがえる。
 六才堂と呼ばれるこの堂は、福山市立加茂中学校近くの県道391号線沿いにある。
 須弥壇などがついた堂が多い中、舟型後背の石仏が堂傍らに立つ本来の四ツ堂タイプのものだ。神辺の中条地区などにも見られるもので、開け放たれた周囲の風景とあいまって、
遠くから見た時、とりわけ美しさが際立つ。
 六才堂は平成17年に修復され、中国自然歩道の説明看板も設置されている。「藩主水野勝成がこうした場所がないのに困り、藩主になった後建てさせた」と看板にもあるように、備後の四ツ堂の云われはそうなっている。しかし、水野時代建立の棟札が残るものは、何百とある備後の四ツ堂中でも皆無に近い。何百年の歴史の中、地域の人たちの手で修繕、改築されていくうちに失ったのであろうか。あるいは村人たちの手による簡素な作りの建物で、棟札等もともと記してはいなかったのか。



 六才堂も建立は江戸時代だと思われるが、棟札も残っておらず、古い歴史を感じさせるものは堂自体には少ない。しかし、田圃の広がる風景の中、地域の人々と共に幾星霜の歳月を重ねてきたであろうことは、充分に推し量ることができる。
 下校時、加茂中の生徒たちが県道を渡り、近道なのであろう六才堂の建つ田圃の中のあぜ道を帰っていた。青き稲穂が一面になびき、海原の中を渡るように進む生徒たち。それを見守るように建つ四ツ堂。毎日のあたりまえすぎるほどの光景だろう。しかし、彼ら、彼女らも、成長し、大学生、社会人になったら、この地から離れることになるのかもしれない。その時は、四ツ堂のある登下校の風景をずっと心に持ち続けていてほしいと願う。
 なぜ備後の四ツ堂が歴史的な習俗であるのか、そして、それをずっと伝え続けている人たちの思いを、しつかり受け止めて巣立っていってほしい。



備陽史探訪の会
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