第47回       杉原盛重(3)

  
 風景の中の歴史

神辺城跡本丸

 宿場町として栄え、今でも本陣跡など名所・旧跡が多く残る歴史の薫る町、神辺。この地はまた古来より備後の中心地であり、健武2年(1335)に備後守護朝山影連が神辺城を築き、戦国時代には数多の武将の争いの舞台となった。杉原盛重もそのひとりである。
 神辺城は、大変立派な山城であったが、江戸時代、水野勝成はこの地には入らず、新たに福山を造り福山城築城の際、神辺城の櫓や門など、ことごとく移築・再利用したので、今では曲輪や空堀が残るばかりである。
 建造物の片鱗さえも現存しておらず、大したも期待せずに城跡に登ってみたのだが、考えを改めざるを得なかった。
 よく手入れされた城山は見晴らしがよく、素人目にも曲輪がはっきりと確認できる。何よりすばらしいのは城跡からの神辺平野の眺望だ。
 ここで、歴代の領主が備後を睨っていたのだろう。平時には眼下で畑仕事をする農民たち、山陽道を行き交う旅人、戦時には緊迫した面持ちで曲輪を走る武者たち、遠方に見えるのが平賀隆宗が陣取った山か……風景に込められた歴史の息吹は、建造物に劣らぬ貴重な文化財である。
 歴史を知識として詰め込むのは少々難儀を感じるようになったが、歴史を感じる心は終生持ち続けていたいと思う。郷土を楽しむと同時にそれはまた、備後に生き、備後を守ってきた先人たちに敬意を表すことにもなるだろう。
 杉原盛重、神辺城主になる

神辺城跡より神辺平野を望む

 天文年間の激戦で神辺城から逃げ落ちた城主杉原忠興は、毛利方と手を結び、弘治元年(1555)神辺城へ返り咲いたが、弘治3年に病死。嗣子がないため、後継者を誰にするかが問題となった。毛利元就の三男小早川隆景は杉原興勝を、次男吉川元春は杉原盛重を推挙した。
 両者とも武勇の誉れが高い武人であったが、盛重は大胆であるが乱暴者で博奕を好み、家来には忍びや盗っ人など怪しげな身分な者がいると、隆景は反対をした。
 しかし、元春は、神辺城での自分との盛重の戦いぶりを高く評価しており、戦功は多いが律義を要として智が少ない興勝は大将の器ではない。知略や計略に長けた盛重こそが、適任であると強く推した。
 そのおかげで、杉原盛重は四番家老から一挙に城主となったのである。
 その時に二番家老であった藤井晧玄は、盛重の下につくのを潔しとせず、致仕した。そして、14年後の永禄12年(1569)に盛重が北九州に出陣している機会に、神辺城を奪ってしまう。盛重側もすぐさま奪回を図り晧玄は討ち取られてしまうが、後に彼の孫娘が流浪中の水野勝成と結ばれ、その嫡男は二代福山藩主となる。なんとも不思議な縁である。



備陽史探訪の会
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